「日本人はどこから来たのか」 寺社仏閣 古墳

日本人はどこから来たのか。寺社仏閣、古墳など史跡をめぐりながら考える。

(11)南方からやって来た縄文人

・マンモスハンターが来る以前
二万年ほど前にバイカル湖を経由した人たちが樺太を通って南下してきた確度はかなり高いことが分かりました。
あれ?でももう四万年前には少数ながら新人が日本列島に到達していたのではなかったか?(人骨が出なくても高い文明の跡・遺跡が見られている)となりますね。しかし関東に住んでいた縄文人バイカル湖由来と見られる人が多かったとは言え、南方由来の縄文人も少数見られました。となると、二万年前よりも古い時代に朝鮮半島沖縄諸島など、樺太とは違うルートでやって来た人がいるのでは、という事になります。話は九州に飛びます。

・南九州にあった独自の文化
どこからやってきたのかは別問題として、「縄文文化は東日本に花開いた」と最近まで考えられてきました。これは関東、北陸、北海道に東北、多くの縄文遺跡が圧倒的に東日本に集中していたためです。
しかし1990年代後半になんと南九州から驚くべき縄文遺跡が続々と発見されるのです。
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●栫ノ原遺跡・・・鹿児島県南さつま市加世田。1万2000年前の暮らしの跡が見つかります。ここには持ち運び用に適さない大きな石器や炉の跡が発見されます。イノシシの肉のような脂肪酸も土壌分析から出ており薫製を作ったと推定されています。隆帯文土器片が1000点以上と石鏃・石斧・磨石・石皿・削器などの石器も多量に出土しており定住生活の施設と道具類が開発されていたことを示しています。一方で竪穴住居は見られません。ここは夏だけの季節限定定住なのではないか?と考えられています。1万1000年~1万年前頃に桜島が大噴火したと見られており、そのサツマ火山灰によって覆われていることからそれ以前の1万2000年前頃の遺跡であることが判明しています。期間限定とはいえ人々がこの時代に定住していたというのは縄文草創期の概念を覆すものになりました。
また、刃部の丸くなった磨製石斧が発見されますが、これは南九州独特の石器で「栫ノ原型石斧」と呼ばています。丸木舟を製作するための道具なのではないかとみられており、南の島から来た海の民を思わせる重要な石器です。
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●掃除山遺跡・・・鹿児島市。ここも1万1000年~1万年前頃に大噴火した桜島のサツマ火山灰の下から発見されており、年代が判明しています。竪穴式住居や燻製施設が見つかりますが、ここでは冬の季節風を避ける向きで斜面に遺構が集中していることや土器や石皿、磨石などの遺物の量も少ないことから、冬の期間限定の定住をしていた場所ではないかと考えられています。竪穴住居は秋に採集したドングリやクルミの貯蔵施設を兼ねた越冬のための居住地なのではないかともみられています。地面に穴を掘って火をたいた調理用の施設、ドングリやクルミなどの木の実を割って砕いたりする石器が出土しました。これらの道具は時代と共に各地でその量が増えて縄文前期になると日本各地からもっともよく発見される道具となるのです。縄文時代の主食が、森の資源である木の実に移り変わったことを示しています。
●上野原遺跡・・・鹿児島県国分市。北に霧島、南に桜島を望む高台に9500年前という古い時代に人々が定住した痕跡が発見されます。ここがいま発見されているところでは「日本最古の定住集落」です。農耕を行わない時代の人々が当時最先端の「定住」というスタイルで、しかも東日本ではなく南九州の地で暮らしていたことは驚きの発見でした。栫ノ原遺跡、掃除山遺跡にみられる期間限定の定住の時代を経て、人々は上野原遺跡のエリアに完全に定住を始めていったようです。52軒の竪穴住居群を中心として39基の集石や16基の連穴土坑などの調理施設をもった集落が見つかっています。
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上野原遺跡
住居が重なり合っていることや、埋まり方に違いがみられることから、建てられた時期に差があり、上野原遺跡のムラはこの地に長期間にわたって営まれていたことがわかりました。また高台南側の最も高い所で、7500年ほど前とみられる地層からは、ひとつの穴に丸と四角の口をもつ2個の壺型土器が完全な形で埋めてありました。その周りには壺型土器や鉢形土器を埋めた11か所の土器埋納遺構と石斧を数本まとめて埋めた石斧埋納遺構が見つかり、これらを取り囲むように日常使用した多くの石器や割られた土器などが置かれた状態で出土しました。ここはまつりなど何らかの儀式が行われた場と考えられています。
このように南九州に高度な文化がみとめられます。縄文ならぬ、貝文土器とでもいうべきか貝殻で文様をつけた土器、そして角筒土器という口の部分が四角いデザインの土器など、非常に先進的なのも南九州の特長となっています。その独自性などから彼らはやはり南方由来の縄文人ではないかとみられているのです。日本列島の北方からやってきた人、南方からやってきた人がそれぞれ日本の各地に暮らし、縄文人は均質などではないことが判ってきました。

・南方由来の縄文人
これら南九州の文化を築いた人たちは、やはり沖縄諸島を渡ってやってきたのでしょうか。その南のルーツを知る手がかりは沖縄で発見されている旧石器時代の遺跡ということになるでしょう。沖縄本島の山下洞穴からは3万2千年前の人類化石が、宮古島からは2万5千年前の、久米島からは2万~1万5千年前の人類化石が見つかっています。3万2千年前には既に現生人類が沖縄で暮らしていようです。しかしこれらはどれも骨のほんの断片しか残っておらず、完全な人骨というと今のところ沖縄の具志頭村で見つかった港川人が唯一です。1万7千年前の港川人骨を分析することで彼らがどこからやって来て、その後の南九州につながるのかどうかが見えてきます。港川一号男性人骨は身長153Cm、小柄な熟年男性で、栄養状態はあまり良くなく、子供の頃に栄養不足からたびたび成長が止まった跡があります。上半身全体は華奢なものの、手の大きさは現代人並で握力は強かったようです。また足腰は強靭で野山を駆け回り食糧を探し回っていたことが読み取れます。頭蓋骨からも噛む力が現代人の2倍もあるなど歯を道具として使ったのであろうことが推察されます。
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最新の港川人の復元顔図このように顔の復元も可能なほど状態の良い港川人骨を、他のアジア人、特に時代の近い化石人骨と比較分析してみたところインドネシアのジャワ島で見つかったワジャク人骨に類似していることが分かりました。ジャワ島は古く110万年前にはピテカントロプスジャワ原人見つかったことでも有名です。ジャワ島は現在も日本の1/3ほどの面積に100以上の民族、日本と同等の1億2千万人が住んでいますが、各地の遺跡から100以上もの化石人骨が見つかっている人骨の宝庫でもあります。なぜこのような海に囲まれた島に原人の時代から旧人、新人と、どの時代にもこれだけ多くの人類がここにが集まって来たのでしょうか。。ここはかつて島ではなく、幻の古代大陸「スンダランド」だったのです。


・スンダランド
100年ほど前のオランダが行なった調査で、インドネシア海域の大陸棚の水深図から、海底にいくつもの谷筋が見つかりました。これはこの海底にかつて川が流れていたことを示しています。その後の地質学などの発展により、この大陸棚全体、東南アジアが大きく陸続きだったことが解明されます。分厚い氷河が存在して海水が少なくなっていた2万年前の最終氷期、スンダランドは今の熱帯雨林気候よりも5~7度気温が低く、やや乾燥していて、草原と森が混在するようなとても過ごしやすい気候でした。人類の故郷アフリカの気候にも似ていたと思われます。ジャワ島のワジャク洞窟から北に1000キロ、マレーシアのボルネオ島もスンダランドの一部でした。ボルネオ島の巨大洞窟「ニアー洞窟」では4万年前~1万年前という氷河期の人々の暮らしの跡が発見されます。入り口の高さがビル10階ほど、60メートルもある洞窟の中の空間は実に東京ドームが2つ入るという大変な広さがあります。ニアー洞窟の人骨は断片であるため人類学的な資料にはなりにくいそうですが、ここからは生活を知る重要な道具が見つかっています。物を切るために使われた「剥片石器」これは竹を加工して他の道具を作るためにも用いられました。また物を砕くチョッパーも見つかっています。剥片石器はその形状にスンダランドならではの特徴がありますが、大きさや薄さも含めそっくりなものが奄美大島の土浜遺跡でも発見されており、日本列島との関連性を示す証拠になっています。さらにニアー洞窟では猿・豚・サイなどの食べかすや貝殻も出土しました。中には南九州で貝文を土器に刻んだハイガイと同じような貝も含まれています。スンダランドは今よりも涼しく乾燥し、森や草原や海にも恵まれ、動物も豊富にいる当時の楽園であったのです。遠く西からやってきた人類はスンダランドに多くが集まってきました。

・海を越えた人々
アフリカを出た人々が遥か東のスンダランドにやって来て、その楽園に定着したのは理解できますが、その後なぜ人々はスンダランドを起点にさらに拡散していったのでしょう。これには環境の面が大きく関わっているようです。スンダランドは水深の浅い大陸棚が、海面の低下した時代に陸地化したものでした。そのため地球環境の変化で海面が上がり下がりする度にその影響をもろに受けて、陸地の面積が大きく広がったり狭くなったりしたとみられています。楽園には陸の面積が広がった時代には人々が一気に集中し、狭くなったら今度は収容できなくなった人たちが押し出されるという現象が長い間に繰り返されたようです。押し出される、と言うのは狭くなったスンダランドから新天地を求めて出てゆく人たちがいたという意味です。
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中には既に6万年前~5万年前に、遥か海を越えることに成功した先人も存在しました。その成功者
、偉大なる海の民、彼らの子孫こそがオーストラリア先住民のアボリジニなのです。アボリジニに伝わる神話には「祖先は貝殻を櫂にして漕いで海を渡ってきた」という伝承があります。今はすっかり陸の生活をしていて、海の民には見えないアボリジニにちゃんと海を越えてやって来た神話が残っているのです。オーストラリア北部のアーネムランド半島カカドゥ国立公園、ここの遺跡の岩壁にはアボリジニの先祖が描いた動物などの壁画があります。1990年、その壁画の下から複数の剥片石器が出土しました。残っていた木炭を調査すると6万年前~5万年前という極めて古い年代が測定されました。かつてスンダランドがあった時代のオーストラリアはニューギニアと陸続きで、こちらには古代大陸「サフルランド」が存在しました。しかしスンダランドとサフルランドの間には海溝があり、陸続きになった時代は過去に存在しないのです。つまり彼らアボリジニの先祖は5万年よりも前に、スンダランドから海を渡り、島伝いにサフルランドへ到達したことが分かります。このような時代にいったいどうやって海を越え遥かなオセアニアに渡ったと言うのでしょうか。。