「日本人はどこから来たのか」 寺社仏閣 古墳

日本人はどこから来たのか。寺社仏閣、古墳など史跡をめぐりながら考える。

(12)海の民

・竹文化
東南アジアは多種の竹の産地でした。スンダランドには氷河期にも多くの竹が繁茂していたと考えられています。竹は生活の必需品となる万能な素材でした。複雑な石器が無くとも簡単に加工ができるため、竹の刃物、竹筒、そして筏を作ることも可能でした。かつて大河が多く存在したスンダランドでは、川での生活の中で筏が作られ、活かされたことでしょう。筏は徐々に発展を遂げ、人々の活動の場は川だけでなく次第に海にも広がっていったとみられます。

・海の民
インドネシアの海に漂流民と呼ばれ、一生を海の上で過ごす海の民、バジャウ族という人々がいます。彼らは今でも海上家屋を建て、自然環境の変化を読みながら漁をして暮らし、視界がなくてもコンパスがなくても波の形や星の位置から航海が可能であるといいます。魚やイモを燻製にして熱帯地方でも保存できるという方法も古くから伝わっています。
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フィリピンのルソン島の東、ポリリョ諸島の村には地元のタガログ語で「海から来た民」という意味のドゥマガットと呼ばれる民族がいます。彼らは集団遺伝子の研究から東南アジアで1番古い少数民族ということが判っていて、肌の黒い人や巻き毛の人が多いのも特徴です。新人がアフリカで誕生した頃の姿をとどめているのだといいます。小柄で彫りが深いその顔立ちは、港川人の復元図にもそっくりなのです。彼らは丸木舟を作ります。その過程で使われる手斧、これと全く同じ機能を持つ道具、それが前述の南九州の栫ノ原型丸ノミ形石斧なのです。鹿児島から出たこの1万2千年前の石斧は世界最古のものですがこれに似たものがフィリピンやグァムなどの黒潮圏でも発見されています。この高度な技術は東南アジアまたは南中国エリアといった南方の海の民に由来する可能性が高いとみられます。
近年は海底の堆積物から海流の流れの歴史まで判るようになりました。黒潮は二万年前の地球温暖化による海面や偏西風の変化の影響で現在の日本列島にぶつかる流れに変わったといいます。この黒潮に乗って南方からやって来た港川人の祖先がいたであろうことを想起させる出来事です。二万年前には大陸と陸続きだった台湾経由で、そこから黒潮に乗って沖縄諸島へやって来ることもできました。また黒潮の発生するいまのフィリピン付近から黒潮に乗って台湾さらに沖縄諸島へ到達した人々もいたでしょう。
太古の昔にオセアニアに渡ったアボリジニの祖先、そして東南アジアに今も暮らす海の民、彼らの存在が人類の航海技術の高さを証明し、南からやって来た海の民が日本列島に到達できたであろうことを確信させるのです。
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・島の限界
港川遺跡の動物骨を地層ごとに分析すると、沖縄本島ではリュウキュウジカなどが絶滅してしまったことがわかります、環境の変化に加えて人々の狩猟による捕り尽くしがあったのかもしれません。また島では大型の哺乳動物も生息できません。島で人類が狩猟に頼って生きてゆくには限界があります。島で人類が数千年に渡り生活するためにはどれくらいの島の面積が必要なのかを民族事例から研究すると狩猟民族が30〜50人の集団で生活する場合、沖縄本島には当時わずか4集団ほどしか生息できないようです。しかも二万年前の沖縄本島の面積は今の四倍もあり、その面積が徐々に小さくなっていったのです。さらに当時は海面変動のある時代でサンゴ礁が育っておらず、サンゴ礁のない海では魚を捕ることが今よりもずっと難しかったといいます。前述の通り、港川人の体型などからも彼らの生きた沖縄の厳しい環境が読み取れるのです。沖縄諸島の人々は新天地を求めてさらに北上してゆき、黒潮に乗って南九州に到達することになったのでしょう。

・南九州、古代の多彩な文化
黒潮がぶつかる南九州では日本列島でもいち早く温暖化が進み、豊かな森が育まれていました。1万5000年前を過ぎると針葉樹に代わりコナラなどの広葉落葉樹の森が誕生し、1万年前になるとシイやカシなどの常緑照葉樹も現れて多様な森が産まれました。南九州に到達した人々はその恩恵を受けて、とうとう日本列島の他の地域に先行して初めて定住スタイルをとるに至ったのです。そして9500年前に上野原に定住した彼らは、安定した生活を土台にしてさらに豊かさを増してゆきます。上野原の7500年前の地層からはさらに高度な、全面を磨きあげられた磨製石器が出土します。これは海の民が丸木舟を作った丸ノミ形石斧と共通の技法で作られたものだということもわかってきました。東南アジアから沖縄諸島を経て南九州にやって来た海の民がその技術を引き継ぎ、ここで森林の生活をおくる中でその環境に適応しながら磨製石器を開発、進化させてきたようです。また7500年前の地層からは多くの壺型土器も発見され研究者たちを驚かせました。それまで壺型土器は稲作の広まった弥生時代に、イネモミの貯蔵用として初めて普及したものと考えられていました。しかし時代が大きくさかのぼって発見されたためです。このことから上野原の人々も何らかの穀物を貯蔵していたのではないか、つまり雑穀栽培が既に始まっていた可能性を示しています。これを裏付けるように上野原の土からはアワ、ヒエ、ハトムギなどのプラントオパールが検出されています。また7500年前の地層からは耳飾りも発見されています。これも縄文中期ななって関東で現れ始めたとされていましたが、時代を大きくさかのぼり上野原が日本最古となりました。耳たぶに穴を開けて飾るスタイルのもので、アジアの北方には全く見られない、東南アジアの一部に見られる特有の習俗であり、これも南方からの伝播をうかがわせる発見となりました。南方からの海の民の文化、それが豊かな土地でさらに独特の進化を遂げた南九州の先進的な文化。この文化はその後一体どこへいってしまったのでしょうか。その後の縄文遺跡が九州ではなく圧倒的に東日本に偏るのはなぜなのでしょうか。

・南九州の楽園を襲った悲劇
日本は知っての通り、火山国です。隙間の多い火山の内部には多くの水が蓄えられ、山麓では火山がもたらした綺麗な湧水や地下水が非常に豊富に出ます。また火山噴出物を材料として利用してきた歴史は縄文の時代から始まっています。またこれは仮想ですが縄文人が温泉の恵みに気づいていたとしても不思議はありません。長野の縄文遺跡は火山に沿って綺麗に作られていることも分かっています。自然と共生する古代の暮らしに火山の麓は非常に適した土地でした。インドシナのジャワ島やアフリカでも火山の裾野では人口密度が高いといいます。しかし火山には当然噴火の危険が伴います。しかし人類にとっての時間に比べ、生命の危機にさらされるような巨大噴火はその周期が非常に長いのです。そのため噴火がもたす悲劇について人々はなかなか後世にその記憶を語り継ぐことができません。大噴火は遥か遠い昔の話として、ほとんど忘れ去られたころ、また起こります。
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火山によってできた巨大な穴、凹地のことを「カルデラ」と呼びます。火山国日本にはこの噴火の痕跡、カルデラが多く存在します。特に火山として有名な鹿児島の桜島姶良カルデラという超巨大な噴火口の中の突出した部分に過ぎません。桜島を南端とする鹿児島湾の北半分が巨大な噴火口そのものなのです。鹿児島にはカルデラが集中しています。
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地質の調査によって過去、巨大カルデラ噴火が日本列島でも度々起きていることが分かっています。地質記録がよく揃っている過去12万年間だけでも10回の巨大カルデラ噴火が起きました。1万年~1万2千年に一度、この巨大カルデラ噴火が起きていることになります。氷河期の終わりを告げるように、約 2 万 9千 年前には姶良カルデラが大噴火を起こしたことが分かりました。吹き上げられた噴煙柱はなんと3 万メートルを超え、やがて崩れると800 度近い灼熱の火砕流が時速 100 キロほどで半径 70 キロ以上を埋めつくしたとみられます。ちなみに今日の川内原発は 50 キロ圏内に建設されています。巨大な火砕流を吐き出す姶良カルデラから吹き飛ばされた岩石は、直径2メートルの岩塊を含めて最大30メートルの地層(霧島市牧之原)になって残っています。空高く吹き上げられた火山灰は、偏西風に乗り東北地方まで 2,500 キロも日本列島全体に降り積もりました。火砕流圏外の南九州では3メートルの厚さで堆積しており、高知県宿毛市で 2 メートル、鳥取県大山付近は 80 センチ、京都市で 40 センチ、東京で 1 センチ、東北ではミリ単位で地層に残っていますが、これら地層の厚さは、姶良火山の噴火から 2 万 9,000 年後の発掘調査の数字なので、その後の堆積物で地層は圧縮されています。それを計算に入れると姶良カルデラ噴火当時の火山灰(シラス)は、約 10 倍の厚さで地表を覆ったと見られのです。すなわち姶良カルデラ噴火時は、南九州 30 メートル、高知県宿毛 20 メートル、鳥取県大山付近 8 メートル、京都 4 メートル、東京 10 センチというとてつもない量の灰を積もらせた絶望的な破壊力だったことがわかります。九州から関西までの人類は直ちに全滅、関東地方や東北南部の人々も致命的な健康被害を受けたに違いないのです。火山灰の成分はガラスですので肺や飲料にまでこの鋭利なガラス片が入り込み、とても生き残れるような環境ではないのです。。現在、高さ 100 メートルもの火砕流の地盤が存在しています。これら火砕流と火山灰の分厚い堆積地盤が通称シラス台地と呼ばれるものです。徳之島ではこの時出来たシラス地層よりも下から旧石器時代の遺物が発掘されています。2万9千年前に日本列島に住んでいた九州から中国地方の旧石器人は一度完全に絶滅したと思われます。とすると一度人類がいなくなった西日本にはこの後新たに人類がやってきたと考えられます。(一部は逃げ延びて戻ってきた?)

・鬼界カルデラの大噴火
そして前述の海の民が再び日本に到達し、南九州を舞台に新たな文化が花開きます。上野原に初めて人が定住を開始し、それからしばらく経った7300年前。今度は薩摩硫黄島の鬼界カルデラで大噴火が起こります。時代は既に縄文時代中期で、最も温暖化した時代でした。噴煙柱は高度3万メートルまで立ち昇り、それが崩壊した火砕流は、四方の海面を走り、100 キロ離れた薩摩半島にも達します。西の種子島屋久島なども火砕流に焼き尽くされてしまいました。種子島大隅半島の地層では、液状化現象の跡を示す地層が見つかっています、同時に大地震が発生したことを示しています。津波も避けられなかったでしょう。そしてその直後にあたりを覆った暗闇、それは大量の火山灰の雲でした。海底火山の噴火は、海水混じりのべっとりした火山灰を降らせ、残っていた森に大きなダメージを与えました。火山灰は成層圏にまで上昇し、遠く東北地方にまで飛んでいます。太陽を遮った火山灰の影響で2~3年間は、気温が低下しました。噴火規模はフイリッピンで1991年に起きたピナツボ火山噴火の10~15倍、雲仙普賢岳の実に100倍以上という規模でした。火山灰は南九州一帯の地層に 60 センチ、大分県で 50 センチの厚さで残っており、通称「アカホヤ」と呼ばれている層です。鬼界カルデラ火山灰は、当時数メートルも降り積もって、九州~四国の縄文人をほぼ全滅させたと見られています。ここに海の民から引き継がれてきた上野原を中心とする南九州独自の輝かしい文化は消滅してしまいました。
以後、植生の完全回復には500年以上の歳月が必要でした。1,000 年近く九州は無人の地だったようです。しかしその後、アカホヤの層の上からも遺跡が発掘されています。つまり新たな縄文文化が再びこの地に出来上がったのです。土器などの形式は大噴火前のものとは全く異なる形式を持っています、つまり新たな人々の流入により新たな文化が出来上がったと考えられます。
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水面下の巨大カルデラは、ひとつでも噴火すれば「破局的噴火」となり、大気圏を漂う噴煙によって亜硫酸ガスの濃度が上がり、地球の酸素を3分の1減らすともいわれています。鹿児島湾はすべて巨大カルデラに海水が入ったもので、桜島以北の姶良カルデラ、その南は阿多カルデラ、同湾入口から西の池田湖にかけて阿多南カルデラ、と3つの海底カルデラで鹿児島湾は成り立っています。破局的噴火は、約1万年~1万2千年にに1度と言われますが、もはやいつ破局的噴火があっても不思議ではないと専門家は指摘します。今このような噴火が起きればその被害は計り知れず、研究すら進んでいないためにどのような悲劇が起きるのか想定すらできません。日本に住んでいる以上、避けられないこの自然災害、明日起こるかもしれませんし、5000年後になるかもしれません。しかし必ずやってきます。我々は諦めるしかないのでしょうか。800年に一度必ずやってくる地震東日本大震災にも半分目を瞑っていたことにより、想定できるものを想定せずに被害を拡大させてしまいました。対策はあるのでしょうか。。。

・幻の縄文文化
大噴火によって海人たちの精神と文化は滅んでしまったように思えました。しかし、大噴火以前に僅かながら黒潮に乗って東へ移動していった人々の痕跡があります。もしかしたら大災害時にも東へ逃げ延びることができた人たちがいたかも知れません。黒潮の流れに沿った先に位置する東の高知県和歌山県などで南九州と同じ、磨製石斧や土器が見つかります。また南九州型と見られる連穴土坑は三重〜愛知〜静岡〜関東と黒潮の沿岸に伝わっていることも判明しました。どうやら黒潮は南九州から現代の私たちに遺伝子と文化をつなげてくれたと考えられます。2000年には東京多摩ニュータウンの4500年前の縄文遺跡からも南方由来とみられる磨製石斧が出土しました、ここは274の住居跡が見つかっている関東地方で最大級の集落遺跡でここから磨製石斧が250本近くも見つかったのです。栫ノ原型石斧にしても栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧にしても、沖縄諸島の石斧文化は日本本土まで広がっていました。そしてさらにその石斧文化については、もっともっと広範囲に考える必要がありそうなのです。
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八丈島小笠原諸島に分布する丸ノミ形の円筒石斧はマリアナ先史文化後期に多数存在する円筒石斧との関連が指摘されています。よってマリアナ先史人が黒潮本流外側の八丈島にまで北上した「太平洋の道」がというのが推定されるのです。また、八丈島には、大型の円筒片刃石斧、屋根形片刃石斧、タガネ状片刃石斧なども発見されていて、それらの石斧の出自も非常に興味深いものです。マリアナ先史文化の起源についてはフィリピン諸島あたりから4000年前項に船出した「海のモンゴロイド」の拡散とも関係することが示唆されています。黒潮の流れるエリアを結ぶと、出発点のフィリピン諸島から台湾、琉球列島、九州、四国、本州中央部へ、そして、南に向かって伊豆諸島から小笠原諸島マリアナ諸島へ、さらに西にヤップ、パラオ諸島へと、北西太平洋を囲むような環状の島嶼群が浮上してくるのです。これら「黒潮文化圏」とも呼べる環状の島嶼地域に、身の断面が円形で、円筒形の片刃石斧が広く分布しているのです。
南方から海洋民族によって日本にもたらされた幻の文化、それは滅びてはいなかったのです。