「日本人はどこから来たのか」 寺社仏閣 古墳

日本人はどこから来たのか。寺社仏閣、古墳など史跡をめぐりながら考える。

(13)大陸から渡ってきた人々

 ・大陸から渡ってきたルート

旧石器時代にシベリア経由で到達した
旧石器時代華北朝鮮半島経由で到達した
弥生時代に同じく華北朝鮮半島経由で到達した
④南方から沖縄経由で到達した。

前項までに①と④ルートは確認ができました。

③は弥生時代に入ってからですから、時代がずっと後です。

とすると残りは②旧石器時代華北朝鮮半島経由で到達したルートになります。以前整理した通り旧石器時代遺跡の「捏造事件」を乗り越えて、確実性の高い人類の痕跡が旧石器時代の地層から出ています。f:id:akikusah:20171124161314j:plain

15万年前~10万年前頃にアフリカを出て中東に達した現生人類は、シベリアの北回りとインド~東南アジアの南回り(ほぼ確実)で東へ向かいます。

 

旧石器時代華北朝鮮半島経由で到達したルート

①のシベリアから日本へ入ってきたルートをさかのぼると、北回りシベリア経由で樺太~北海道とやって来たように思いますが、実はこれを否定する説もあります。南回りでインドまでやって来た人々が中国を経由してシベリアに北上し、そこからさらに日本に東進した、あるいは中国華北朝鮮半島に南下してから日本にやってきた。という説があります。また南回りでスンダランドまでやってきてからそこを拠点に中国やシベリアにまで北上したのだ。というものもあり、北回り自体を?とされることもあるのです。しかもこの時代にシベリアから日本に入ってきた人々は寒冷地に対応して体の凹凸を無くし、平たいのっぺりした顔に細い目を持つ新モンゴロイドではなく、南方の特徴を持った古モンゴロイドと見られます。時間をかけて北回りりルートを旅してきたのであれば寒冷地に適応した身体=新モンゴロイドの特徴が現れそうなものですが、、、

シベリアから一部アメリカ大陸に渡った一派も古モンゴロイドであったところを見ても、南回りにアジアへやってきた人たちが北上してシベリア、そしてその先の日本やアメリカ大陸に到達したのではないかとも思えます。ただ北回りルート沿いに遺跡も存在することから、私は北回りルート自体は確実にあったと考えています。北回りというのは言うまでもなくヒマラヤ山脈の北側を東進したルートの事ですが、具体的にはどのようなルートだったのでしょうか。アフリカから東進し主にインドのインダス川流域に生息していたモンゴロイドはその時代時代の気候に合わせて移動をしていました。インダス川流域が乾燥して住みにくくなった時代には一部北上し、気候の良いパミール高原(現在のタジキスタンアフガニスタン・中国の国境付近で標高5000Mにもなる)やタリム盆地方面に向かったようです。これがヒマラヤ山脈の北側に出たことになります。

彼らはさらにマンモスなどの動物を追いかけてバルハシ湖(カザフスタン東部)へ向かい、さらにシベリアを東進してあのバイカル湖まで進出します。その後は寒冷期がやってくるとシベリアの極寒に耐えられずまた南下してパミール高原タリム盆地に戻って行ったり、また動物を追ってシベリアに展開したり、大きく行ったり来たり移動を繰り返しながら寒冷地に適応していったものと考えられています。これが北回りルートです。その中から突如としてシベリアをさらに進み、ベーリング海からアメリカ大陸へ渡った一派や、南下して樺太(から日本へ)や半島方面(から日本へ)に向かった一派がいたということではないでしょうか。現在バイカル湖縄文人と同じ系統の人々が住むことは確認されているわけですが、その共通する人々の根源がこの北回りの人々にあるという一つの説明にはなるわけです。しかし一方で、南回りで南方からアジアに入ったモンゴロイドの一部がバイカル湖にまで北上したとしても不思議はありません。現にアメリカに到達したモンゴロイドはなぜか寒冷地に適した新モンゴロイドに変容しておらず、旧来の古モンゴロイドと見られています。①ルートに関してもまだまだ分からない事だらけです。

 そしてヒマラヤ南回りで中国に人々が達したのは6万年前~5万年前と、かなり古いこの時代とみられています。ということは華南から直接日本へ、あるいは華北へ北上した後に半島を経由して日本へ、4万年前頃には少数であれ日本列島に達していたとしても不思議はありません。やって来たというより流れ着いた可能性も有ります。

私の考えますに②旧石器時代に大陸・半島経由で到達したというルート=4万年ほど前を起点として、南回りで中国に達した人々の中から日本列島に達した一派が出始めたのだと思っています。特に3万8千年前頃には朝鮮半島からの対馬ルートは、目視しながら渡れるほどの環境だったようです。そしてちょうどこの頃から日本には遺跡が急増します。まとまった数の人たちが日本列島に渡って来たのではないでしょうか。

しかし大陸・半島経由で日本へ渡ってきた人々が、どこから「大陸・半島の日本の対岸エリア」にやってきた系統なのか、南方由来なのか北方由来なのか、どちらの要素も持っているためにハッキリしないのです。時代が折り重なって南からも北からも両方やって来た可能性もあります。

A・インドから南回り中国に入りそこから日本対岸にやって来た

B・南回り→スンダランド由来の南方の民族が北上して日本対岸にやって来た

C・AやBの人々がシベリアに北上したあと再び南下して日本対岸にやって来た

D・北回り→シベリア由来の北方モンゴロイドが半島付近まで南下して来た

このようにいくつもルートが考えられますし、実際複数、全て存在した可能性も高いと考えます。半島経由でやってきた人に限って考えても、このようにルートを絞り込むことは難しいのです。この時代の半島からの玄関口である北九州や山陰地方の遺跡と半島の遺跡を比較すればその流れが分かりそうなものですが、、そう簡単なものではないようです。そもそも大陸ではどこからどのような人たちがやってきて、何が起きていたのか、それを確認することも大切ではないでしょうか。後項で大陸の状況にも触れたいと思います。

 

・多方面からやってきた日本人

こうして縄文人につながるであろう、太古の旧石器時代に日本にやってきた現生人類のルーツを見ても、列島への人の流れが単一ではないことが良く分かります。アフリカを出て中東で東に進路を取り、様々な旅をして来たモンゴロイド。彼らは東の果ての孤島、日本で再会することになったのです。

では日本に遺跡が増え始める4万年前以降、日本のどこにどのような人たちが住んでいて、どのように縄文人につながってゆくのでしょうか。しつこいようですが酸性土壌でほぼ人骨の出ない日本ではその解明を石器の編年や遺跡の構造から解き明かす必要があります。石器の編年研究とは、石器の時代による移り変わりを探し、その変遷の段階を地域別に明らかにすることで行なわれます。

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(14)人類滅亡の危機

前項、4万年前、遺跡が急に増加し出した日本(現生人類最初の大きな波が日本に到達した時期)とはどんなものだったのかというところで話が終わりましたが、少し脱線したいと思います。

 

・人類滅亡の危機

④の南方から沖縄経由ルートで到達した海の民。彼らは6万年もの太古の昔にスンダランドからサフールランドに渡ることができる海洋技術を有した人々ですから、その中の一部は北上して黒潮の流に乗って(黒潮が直接九州にぶつかるようになる前の時代ではあるが)日本列島に渡ってきていた、そういう一派が少数いた可能性が有ると思います。少数が断続的に沖縄ルートで日本にやって来たと思われます。ある程度まとまった第1波がいて、港川人(1万8千年前)の時代は第2波のまとまった集団だった、という説を唱える研究者もいます。その第1波というのは7万3千年前に今のスマトラ島(スンダランドの西方)で起きたトバ火山の大噴火(ここ10万年で地球上最大の噴火)を必死に逃れて脱出した人々のうち、日本列島にまでやって来た一団があったのではないかという説です。(時代がさかのぼり過ぎなような気もしますが。。)

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トバ湖はこの噴火で生じた世界最大のカルデラ湖である

スンダランドに現生人類が既に到達していた可能性のある時代ですし、この説も可能性としては無視できないと思います。これらを考えると4万年前には南方ルートからの日本到達を果たした人々もいたのではないでしょうか。

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ちなみにこのトバ火山の超巨大噴火によって、当時東南アジアに残っていた原人、ユーラシア大陸に広く展開していたであろう旧人、そしてアフリカを出て東南アジアにまで進出し始めていた新人は壊滅的な被害を受けたと考えられます。東南アジアエリアにいた様々な人類はほぼ壊滅、全世界に灰が降り積もり被害はどんどん拡大、灰は厚く太陽を遮り、世界の気温が5度も低下するという急激な寒冷化を招きます。この寒冷化はなんと6000年も続き、原人類は滅亡、旧人類もほんの一部ネアンデルタール人やデニソワ人などを残し滅んでしまったといいます。新人の系統も多くは滅亡し、残ったのが我々現生人類につながったということになります。超巨大噴火前に、合わせて100万人はいたと考えられている人類は1万人以下になってしまったようなのです(トバ・カタストロフ理論)この劇的な寒冷化以降から人類は「衣服を身に着ける」という観念を持ったという説もあります。

楽園であったスンダランドでこのような大爆発があったこともあり、これをきっかけに新天地を求めて北東方向に向かった一派が、時間をかけて日本にも到達した。つまり④ルートはかなり古い時代からあった可能性があります。

また、この時代に現生人類がスンダランドまで到達していなかったとしても、地球上のどこにいたにせよ、全ての現生人類はこの人類滅亡の危機を乗り越えて生き残った人々の子孫であることが分かります。世界中の誰もが同じ彼らの子孫です。

(12)海の民

・竹文化
東南アジアは多種の竹の産地でした。スンダランドには氷河期にも多くの竹が繁茂していたと考えられています。竹は生活の必需品となる万能な素材でした。複雑な石器が無くとも簡単に加工ができるため、竹の刃物、竹筒、そして筏を作ることも可能でした。かつて大河が多く存在したスンダランドでは、川での生活の中で筏が作られ、活かされたことでしょう。筏は徐々に発展を遂げ、人々の活動の場は川だけでなく次第に海にも広がっていったとみられます。

・海の民
インドネシアの海に漂流民と呼ばれ、一生を海の上で過ごす海の民、バジャウ族という人々がいます。彼らは今でも海上家屋を建て、自然環境の変化を読みながら漁をして暮らし、視界がなくてもコンパスがなくても波の形や星の位置から航海が可能であるといいます。魚やイモを燻製にして熱帯地方でも保存できるという方法も古くから伝わっています。
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フィリピンのルソン島の東、ポリリョ諸島の村には地元のタガログ語で「海から来た民」という意味のドゥマガットと呼ばれる民族がいます。彼らは集団遺伝子の研究から東南アジアで1番古い少数民族ということが判っていて、肌の黒い人や巻き毛の人が多いのも特徴です。新人がアフリカで誕生した頃の姿をとどめているのだといいます。小柄で彫りが深いその顔立ちは、港川人の復元図にもそっくりなのです。彼らは丸木舟を作ります。その過程で使われる手斧、これと全く同じ機能を持つ道具、それが前述の南九州の栫ノ原型丸ノミ形石斧なのです。鹿児島から出たこの1万2千年前の石斧は世界最古のものですがこれに似たものがフィリピンやグァムなどの黒潮圏でも発見されています。この高度な技術は東南アジアまたは南中国エリアといった南方の海の民に由来する可能性が高いとみられます。
近年は海底の堆積物から海流の流れの歴史まで判るようになりました。黒潮は二万年前の地球温暖化による海面や偏西風の変化の影響で現在の日本列島にぶつかる流れに変わったといいます。この黒潮に乗って南方からやって来た港川人の祖先がいたであろうことを想起させる出来事です。二万年前には大陸と陸続きだった台湾経由で、そこから黒潮に乗って沖縄諸島へやって来ることもできました。また黒潮の発生するいまのフィリピン付近から黒潮に乗って台湾さらに沖縄諸島へ到達した人々もいたでしょう。
太古の昔にオセアニアに渡ったアボリジニの祖先、そして東南アジアに今も暮らす海の民、彼らの存在が人類の航海技術の高さを証明し、南からやって来た海の民が日本列島に到達できたであろうことを確信させるのです。
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・島の限界
港川遺跡の動物骨を地層ごとに分析すると、沖縄本島ではリュウキュウジカなどが絶滅してしまったことがわかります、環境の変化に加えて人々の狩猟による捕り尽くしがあったのかもしれません。また島では大型の哺乳動物も生息できません。島で人類が狩猟に頼って生きてゆくには限界があります。島で人類が数千年に渡り生活するためにはどれくらいの島の面積が必要なのかを民族事例から研究すると狩猟民族が30〜50人の集団で生活する場合、沖縄本島には当時わずか4集団ほどしか生息できないようです。しかも二万年前の沖縄本島の面積は今の四倍もあり、その面積が徐々に小さくなっていったのです。さらに当時は海面変動のある時代でサンゴ礁が育っておらず、サンゴ礁のない海では魚を捕ることが今よりもずっと難しかったといいます。前述の通り、港川人の体型などからも彼らの生きた沖縄の厳しい環境が読み取れるのです。沖縄諸島の人々は新天地を求めてさらに北上してゆき、黒潮に乗って南九州に到達することになったのでしょう。

・南九州、古代の多彩な文化
黒潮がぶつかる南九州では日本列島でもいち早く温暖化が進み、豊かな森が育まれていました。1万5000年前を過ぎると針葉樹に代わりコナラなどの広葉落葉樹の森が誕生し、1万年前になるとシイやカシなどの常緑照葉樹も現れて多様な森が産まれました。南九州に到達した人々はその恩恵を受けて、とうとう日本列島の他の地域に先行して初めて定住スタイルをとるに至ったのです。そして9500年前に上野原に定住した彼らは、安定した生活を土台にしてさらに豊かさを増してゆきます。上野原の7500年前の地層からはさらに高度な、全面を磨きあげられた磨製石器が出土します。これは海の民が丸木舟を作った丸ノミ形石斧と共通の技法で作られたものだということもわかってきました。東南アジアから沖縄諸島を経て南九州にやって来た海の民がその技術を引き継ぎ、ここで森林の生活をおくる中でその環境に適応しながら磨製石器を開発、進化させてきたようです。また7500年前の地層からは多くの壺型土器も発見され研究者たちを驚かせました。それまで壺型土器は稲作の広まった弥生時代に、イネモミの貯蔵用として初めて普及したものと考えられていました。しかし時代が大きくさかのぼって発見されたためです。このことから上野原の人々も何らかの穀物を貯蔵していたのではないか、つまり雑穀栽培が既に始まっていた可能性を示しています。これを裏付けるように上野原の土からはアワ、ヒエ、ハトムギなどのプラントオパールが検出されています。また7500年前の地層からは耳飾りも発見されています。これも縄文中期ななって関東で現れ始めたとされていましたが、時代を大きくさかのぼり上野原が日本最古となりました。耳たぶに穴を開けて飾るスタイルのもので、アジアの北方には全く見られない、東南アジアの一部に見られる特有の習俗であり、これも南方からの伝播をうかがわせる発見となりました。南方からの海の民の文化、それが豊かな土地でさらに独特の進化を遂げた南九州の先進的な文化。この文化はその後一体どこへいってしまったのでしょうか。その後の縄文遺跡が九州ではなく圧倒的に東日本に偏るのはなぜなのでしょうか。

・南九州の楽園を襲った悲劇
日本は知っての通り、火山国です。隙間の多い火山の内部には多くの水が蓄えられ、山麓では火山がもたらした綺麗な湧水や地下水が非常に豊富に出ます。また火山噴出物を材料として利用してきた歴史は縄文の時代から始まっています。またこれは仮想ですが縄文人が温泉の恵みに気づいていたとしても不思議はありません。長野の縄文遺跡は火山に沿って綺麗に作られていることも分かっています。自然と共生する古代の暮らしに火山の麓は非常に適した土地でした。インドシナのジャワ島やアフリカでも火山の裾野では人口密度が高いといいます。しかし火山には当然噴火の危険が伴います。しかし人類にとっての時間に比べ、生命の危機にさらされるような巨大噴火はその周期が非常に長いのです。そのため噴火がもたす悲劇について人々はなかなか後世にその記憶を語り継ぐことができません。大噴火は遥か遠い昔の話として、ほとんど忘れ去られたころ、また起こります。
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火山によってできた巨大な穴、凹地のことを「カルデラ」と呼びます。火山国日本にはこの噴火の痕跡、カルデラが多く存在します。特に火山として有名な鹿児島の桜島姶良カルデラという超巨大な噴火口の中の突出した部分に過ぎません。桜島を南端とする鹿児島湾の北半分が巨大な噴火口そのものなのです。鹿児島にはカルデラが集中しています。
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地質の調査によって過去、巨大カルデラ噴火が日本列島でも度々起きていることが分かっています。地質記録がよく揃っている過去12万年間だけでも10回の巨大カルデラ噴火が起きました。1万年~1万2千年に一度、この巨大カルデラ噴火が起きていることになります。氷河期の終わりを告げるように、約 2 万 9千 年前には姶良カルデラが大噴火を起こしたことが分かりました。吹き上げられた噴煙柱はなんと3 万メートルを超え、やがて崩れると800 度近い灼熱の火砕流が時速 100 キロほどで半径 70 キロ以上を埋めつくしたとみられます。ちなみに今日の川内原発は 50 キロ圏内に建設されています。巨大な火砕流を吐き出す姶良カルデラから吹き飛ばされた岩石は、直径2メートルの岩塊を含めて最大30メートルの地層(霧島市牧之原)になって残っています。空高く吹き上げられた火山灰は、偏西風に乗り東北地方まで 2,500 キロも日本列島全体に降り積もりました。火砕流圏外の南九州では3メートルの厚さで堆積しており、高知県宿毛市で 2 メートル、鳥取県大山付近は 80 センチ、京都市で 40 センチ、東京で 1 センチ、東北ではミリ単位で地層に残っていますが、これら地層の厚さは、姶良火山の噴火から 2 万 9,000 年後の発掘調査の数字なので、その後の堆積物で地層は圧縮されています。それを計算に入れると姶良カルデラ噴火当時の火山灰(シラス)は、約 10 倍の厚さで地表を覆ったと見られのです。すなわち姶良カルデラ噴火時は、南九州 30 メートル、高知県宿毛 20 メートル、鳥取県大山付近 8 メートル、京都 4 メートル、東京 10 センチというとてつもない量の灰を積もらせた絶望的な破壊力だったことがわかります。九州から関西までの人類は直ちに全滅、関東地方や東北南部の人々も致命的な健康被害を受けたに違いないのです。火山灰の成分はガラスですので肺や飲料にまでこの鋭利なガラス片が入り込み、とても生き残れるような環境ではないのです。。現在、高さ 100 メートルもの火砕流の地盤が存在しています。これら火砕流と火山灰の分厚い堆積地盤が通称シラス台地と呼ばれるものです。徳之島ではこの時出来たシラス地層よりも下から旧石器時代の遺物が発掘されています。2万9千年前に日本列島に住んでいた九州から中国地方の旧石器人は一度完全に絶滅したと思われます。とすると一度人類がいなくなった西日本にはこの後新たに人類がやってきたと考えられます。(一部は逃げ延びて戻ってきた?)

・鬼界カルデラの大噴火
そして前述の海の民が再び日本に到達し、南九州を舞台に新たな文化が花開きます。上野原に初めて人が定住を開始し、それからしばらく経った7300年前。今度は薩摩硫黄島の鬼界カルデラで大噴火が起こります。時代は既に縄文時代中期で、最も温暖化した時代でした。噴煙柱は高度3万メートルまで立ち昇り、それが崩壊した火砕流は、四方の海面を走り、100 キロ離れた薩摩半島にも達します。西の種子島屋久島なども火砕流に焼き尽くされてしまいました。種子島大隅半島の地層では、液状化現象の跡を示す地層が見つかっています、同時に大地震が発生したことを示しています。津波も避けられなかったでしょう。そしてその直後にあたりを覆った暗闇、それは大量の火山灰の雲でした。海底火山の噴火は、海水混じりのべっとりした火山灰を降らせ、残っていた森に大きなダメージを与えました。火山灰は成層圏にまで上昇し、遠く東北地方にまで飛んでいます。太陽を遮った火山灰の影響で2~3年間は、気温が低下しました。噴火規模はフイリッピンで1991年に起きたピナツボ火山噴火の10~15倍、雲仙普賢岳の実に100倍以上という規模でした。火山灰は南九州一帯の地層に 60 センチ、大分県で 50 センチの厚さで残っており、通称「アカホヤ」と呼ばれている層です。鬼界カルデラ火山灰は、当時数メートルも降り積もって、九州~四国の縄文人をほぼ全滅させたと見られています。ここに海の民から引き継がれてきた上野原を中心とする南九州独自の輝かしい文化は消滅してしまいました。
以後、植生の完全回復には500年以上の歳月が必要でした。1,000 年近く九州は無人の地だったようです。しかしその後、アカホヤの層の上からも遺跡が発掘されています。つまり新たな縄文文化が再びこの地に出来上がったのです。土器などの形式は大噴火前のものとは全く異なる形式を持っています、つまり新たな人々の流入により新たな文化が出来上がったと考えられます。
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水面下の巨大カルデラは、ひとつでも噴火すれば「破局的噴火」となり、大気圏を漂う噴煙によって亜硫酸ガスの濃度が上がり、地球の酸素を3分の1減らすともいわれています。鹿児島湾はすべて巨大カルデラに海水が入ったもので、桜島以北の姶良カルデラ、その南は阿多カルデラ、同湾入口から西の池田湖にかけて阿多南カルデラ、と3つの海底カルデラで鹿児島湾は成り立っています。破局的噴火は、約1万年~1万2千年にに1度と言われますが、もはやいつ破局的噴火があっても不思議ではないと専門家は指摘します。今このような噴火が起きればその被害は計り知れず、研究すら進んでいないためにどのような悲劇が起きるのか想定すらできません。日本に住んでいる以上、避けられないこの自然災害、明日起こるかもしれませんし、5000年後になるかもしれません。しかし必ずやってきます。我々は諦めるしかないのでしょうか。800年に一度必ずやってくる地震東日本大震災にも半分目を瞑っていたことにより、想定できるものを想定せずに被害を拡大させてしまいました。対策はあるのでしょうか。。。

・幻の縄文文化
大噴火によって海人たちの精神と文化は滅んでしまったように思えました。しかし、大噴火以前に僅かながら黒潮に乗って東へ移動していった人々の痕跡があります。もしかしたら大災害時にも東へ逃げ延びることができた人たちがいたかも知れません。黒潮の流れに沿った先に位置する東の高知県和歌山県などで南九州と同じ、磨製石斧や土器が見つかります。また南九州型と見られる連穴土坑は三重〜愛知〜静岡〜関東と黒潮の沿岸に伝わっていることも判明しました。どうやら黒潮は南九州から現代の私たちに遺伝子と文化をつなげてくれたと考えられます。2000年には東京多摩ニュータウンの4500年前の縄文遺跡からも南方由来とみられる磨製石斧が出土しました、ここは274の住居跡が見つかっている関東地方で最大級の集落遺跡でここから磨製石斧が250本近くも見つかったのです。栫ノ原型石斧にしても栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧にしても、沖縄諸島の石斧文化は日本本土まで広がっていました。そしてさらにその石斧文化については、もっともっと広範囲に考える必要がありそうなのです。
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八丈島小笠原諸島に分布する丸ノミ形の円筒石斧はマリアナ先史文化後期に多数存在する円筒石斧との関連が指摘されています。よってマリアナ先史人が黒潮本流外側の八丈島にまで北上した「太平洋の道」がというのが推定されるのです。また、八丈島には、大型の円筒片刃石斧、屋根形片刃石斧、タガネ状片刃石斧なども発見されていて、それらの石斧の出自も非常に興味深いものです。マリアナ先史文化の起源についてはフィリピン諸島あたりから4000年前項に船出した「海のモンゴロイド」の拡散とも関係することが示唆されています。黒潮の流れるエリアを結ぶと、出発点のフィリピン諸島から台湾、琉球列島、九州、四国、本州中央部へ、そして、南に向かって伊豆諸島から小笠原諸島マリアナ諸島へ、さらに西にヤップ、パラオ諸島へと、北西太平洋を囲むような環状の島嶼群が浮上してくるのです。これら「黒潮文化圏」とも呼べる環状の島嶼地域に、身の断面が円形で、円筒形の片刃石斧が広く分布しているのです。
南方から海洋民族によって日本にもたらされた幻の文化、それは滅びてはいなかったのです。

(10)北方からやって来た縄文人

縄文人
縄文時代は1万3000年前頃に始まるとされています。
土器の使用や農耕狩猟採集経済、穴式住居の普及による定住化などが旧石器時代から移行するその指標となっています。また縄文時代の終わりについては紀元前(BC)4世紀頃となっていますがこれも徐々にズレるなどしています。この時代に日本列島に暮らし、縄文文化を持った人々の総称を縄文人といいます。

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旧石器時代に日本に渡ってきた新人がそのまま新しい文化を持つに至り徐々に縄文人になったのか、または新たに日本列島に人々の流入があったのかは様々な説があります。しかし旧石器時代にも、縄文時代にも、それぞれ日本列島へ人の流入があったのは確かだと思われます。そのことから考えると旧石器時代に列島に渡ってきた人々がそのまま進化していった集団と、新たに日本列島に(複数ルートで)渡ってきた集団と、両方混在していたと考えるのが自然であると思います。

日本は土壌の問題で1万年以前の人骨はほとんど見つかりません。日本列島の古い化石人骨と言えば1万年前以降、つまり縄文人のものになります。近年DNA分析技術が急速に進歩し化石人骨のDNAを読み取ることが可能になってきました、この技術で縄文人のDNAを探ることができます。これは原日本人を解き明かす上で非常に有効です。時代が下った後年の人骨と比べ遥かに混血が少ない縄文人は、日本人の原型に近い姿を見せてくれるはずです。

 

・列島へのルート

(8)項の冒頭、日本人のやってきたルートについて以下のような整理をしました。

旧石器時代にシベリア経由で到達した
旧石器時代華北朝鮮半島経由で到達した
弥生時代に同じく華北朝鮮半島経由で到達した
④南方から沖縄経由で到達した。

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これら大きく4方面からの日本列島への流入、これは本当に正しいのでしょうか。諸説あり大いに議論されています。


・埴原和郎説、日本人の二重構造モデル

これは1990年の国際日本文化研究センター開催の国際シンポジウムで、埴原和郎氏が発表した大変ポピュラーな、また支持を集めた説です。
 (1)旧石器時代の港川人と縄文人は、古く東南アジアに住んでいた原アジア人の系統で、縄文人はほぼ均質の集団だった。
 (2)渡来系弥生人は寒冷適応を遂げた北アジア人の系統で、日本列島で縄文系集団と共存・混血するようになった。
 (3)北アジア系の渡来は弥生時代古墳時代を経て初期歴史時代まで続き、日本列島における二重構造が明瞭になってきた。とくに古墳時代以後は、東日本(縄文系)と西日本(渡来系)の差が明瞭になった。
 (4)アイヌと沖縄の集団は渡来系集団の影響を受けることがきわめて少ないか、またほとんどなく、縄文系集団がそのまま小進化したものと思われる。
 (5)現代の日本および日本文化にみられる地域性は、縄文系の伝統と渡来系の伝統との接触の程度が異なることから生じ、時代が下るにしたがって種々の地域的要因(たとえば気候、国内の移動、政治的影響など)が付加されることによって現在の状況が作られてきたと思われる。

以上のように埴原氏は主張しています。約20000前に沖縄にいた港川人、それと縄文人は同じ系統である、つまり「縄文人は東南アジアから台湾~沖縄諸島を通って日本列島にやってきた、そして弥生時代に入ってから北アジア人が新たに渡来してきて縄文人と混血したのだ」という説です。この説の通り縄文人は東南アジア由来なのでしょうか。

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※港川人=沖縄県南部で見つかった約2万年前とみられる人骨。最近まで縄文人の祖先というのが定説だった。

 

・インディアンと日本人

少し話が脱線します。1986年、アメリカ・フロリダ州の湿原でミイラ化したヒトの脳組織が発掘され、このミイラは年代測定の結果、7,000年前のものと判明し、この脳組織はアメリカインディアンの祖先のものとされました。この脳組織からまず、微量のmtDNA(ミトコンドリアデオキシリボ核酸)の抽出し、次に当時最新の画期的なDNA増幅技術・PCR法を使って、mtDNAの一部を増幅し塩基配列(DNAの文字配列)の決定に成功します。
その結果大部分の現代人では“GGGCCC”という文字列になっている塩基配列が、このミイラは“GGACCC”と特徴的なものになっていたのです。そこでまず現代インディアンのなかにGGACCCの塩基配列を持つ人がいないかを調べましたが全く見出すことができません。調査範囲を世界中の現代人に広げると、なんと日本人の5人がミイラと同じGGACCCという配列であることが明らかとなったのです。このような変異型のDNA配列を持つミイラと現代日本人の一部が偶然一致するとは起こり得ないといいます。従って、現代日本人と7,000年前に生きていた北米のインディアンが、遺伝子のレベルで共通の基盤を持っていたことが判明したのです。これは、はるか昔アメリカインディアンの祖先が、北アジア、シベリアからベーリング陸橋を渡って北米大陸に移住したことを意味します。アメリカインディアンは日本人と同じアジアに起源する民族だという説は以前からありましたが、これがDNAにより証明されました。すると日本人はどこかの時代でシベリア、北方からの流入経路があったことになりそうです。

 

縄文人は東南アジア由来か

話は戻って、縄文人は本当に東南アジア由来と言えるのでしょうか。 1990年、日本の人骨分析のパイオニアである宝来聰教授はフロリダのミイラというような考古学的試料から塩基配列が決定できるという画期的成功に啓発され研究を重ねていました。そういう折に埼玉県浦和市で5900年前・縄文時代前期の人骨(浦和1号)が発掘されるのです。宝来教授はこの浦和1号からmtDNAを取り出し塩基配列を解読しました、するとこの日本最初の縄文人人骨サンプルである浦和1号の縄文人骨から、ミトコンドリア配列で明らかに東南アジア人であるDNAが検出されたのです。それまではDNA分析ではなく、主に考古学の主観的な手法か民族学での骨格分類解析くらいからしかおこなわれていませんでした。「日本人は南方系と北方系の混血だろう」くらいに考えられていたのです。そこに新技術導入によりこの「東南アジア由来」という結果が現れたのです。

その後この東南アジア由来の縄文人と、現代人121人との塩基配列との比較分析を行います。すると現代の日本人62人の中には浦和1号と完全一致する人は1人もいませんでした。また190塩基中1ヶ所だけが違う近似の日本人が15人、2ヶ所違う日本人が8人という結果が出ました。一方で日本人以外の現代中東南アジア人2人(マレーシア人とインドネシア人)が浦和1号の配列に完全に一致しました。
つまり現代日本人は、5900年前の浦和に住んでいた縄文人と比較すると、かなり混血などの変異が進んでいるようで2/3近くの人が違う系統(塩基数が3個以上違う)ということになりました。一方で現代の東南アジア人と浦和1号縄文人は共通の起源を持つ可能性が高いということです。この浦和1号はまさに埴原和郎氏の縄文人南方起源説を証明したことになりました。これで二重構造モデルは確定的、縄文人は主に東南アジア由来であるということで、起源論争には終止符が打たれたかに見えました。

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縄文人は東南アジア人という説への反証 

宝来教授のmtDNAの先駆的研究は、人類学の分野に新風を送り画期的な成果をあげました。しかし、浦和1号わずか一体だけで日本人の南方起源を判断するのは早計だということは宝来教授自身十分認識しており、その後も精力的な調査をおこないます。
宝来教授は戸田市で発掘された縄文前期人1人、北海道高砂遺跡出土の縄文後期人3人の古人骨データを解析し、アイヌや現代の世界中の人々との関係を調べます。するとmtDNA配列は日本本土人、漢族、フィリピン人、台湾原住民と東アジア全体に見られたのです。

 戸田出土縄文人

 =本土人アイヌ、沖縄人、漢族、韓国人、台湾原住民

 北海道高砂遺跡出土縄文人

 =本土人アイヌ、沖縄人、漢族、韓国人、台湾原住民

この通り浦和1号は1サンプルに過ぎず、埼玉県戸田市と北海道の縄文人は現代本土日本人・アイヌ人・沖縄人と同配列のmtDNAを共有していたのです。(縄文人が現代の日本人とまるでつながらなかったら大変なことですので、、少しホッとするような結果です)

 

・日本人バイカル湖畔起源説と中妻貝塚

また1972年に発見されていた取手市「中妻貝塚」の集中人骨埋葬土壙の人骨の一部を、佐賀医科大学の篠田謙一氏がmtDNA分析します。その結果はNHKスペシャル「日本人 はるかな旅」でも取り上げられました。「DNA分析の結果、シベリアのブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した」と紹介され話題を呼んだのです。29体の縄文人のうち1体が韓国人と一致、1体が台湾に住む中国人、1体がタイ人、そして実に17体がシベリア平原に暮らすブリヤート人とDNA配列が一致しました。(残り9体は一致するデータなし)浦和1号とさほど離れていない取手の中妻遺跡人の中に、北方アジアを故郷に持つ人がこれだけ高確率で出て、しかも東南アジア人のものは全く出ませんでした。それ以前から一部研究者の間に存在した「日本人バイカル湖畔起源説」がにわかにクローズアップされ始めます。

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バイカル湖の位置

NHKの取材班は真相を探るべくブリヤートのマクソホンという1600人の村に飛びます。縄文人と完全一致のDNAが見つかったサンプル17人はこの村のものでした。吹きさらしの大雪原の中にあるこの村で取材班は先祖にまつわる話、村の歴史を尋ねます。しかし村民の返事はまるで要領を得ません、聞けばブリヤート人ロシア革命以前、最近まで家畜とともに草を求めて移動する遊牧生活を守ってきたために、ロシアによる政策で初めて定住して村で畜産業を営むことを知ったと言うのです。これでは民族の歴史はたどることができません。しかしこのシベリアの地、バイカル湖周辺といえば、考古学上の常識を覆した驚愕の遺跡、世界に有名なマリタ遺跡が存在します。

 

・マリタ遺跡

1928年シベリア野村民が偶然大量のマンモスの化石を発見します。分析の結果2万3千年前の貴重なものと判りました。しかし興奮はこれでは終わりません、マンモスの骨に混じって数多くの石器や火を炊いた炉の跡が発見されたのです。調査は拡大し円形の住居跡、幼児の墓、マンモスの牙から作った女性の人形までもが発見されます。シベリアで氷河期の真っ只中に人が文化的な暮らしをしていた。世界的なニュースでした。

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マリタ遺跡出土のマンモスの牙から作った人形

シベリアでは200近くの遺跡が発見されています。考古学上の研究からは四万年前にシベリアに到達した新人は二万年前には広大なシベリアの隅々まで広がったと考えられています。この中から果たして日本に到達した人々がいたのでしょうか。このシベリアの人類の間で生まれ広く使われた特徴的な道具に「細石刃」という付け替え用の非常に小さく細やかな石器があります。この細石刃が2万1千年前からシベリアで使われだしますが、その細石刃が2万年前の北海道・千歳の遺跡を最古として日本でも数多く発見されているのです。この非常に繊細な石器が多く発見されるのは、シベリアと日本だけだと言います。考古学上シベリアから樺太、北海道という文化の流入があったという仮説は十分に成り立ちそうです。

 

 ・マンモスハンター

アフリカを出た現生人類は各地に拡散して行きましたが、この時東南アジアのスンダランドに向かいそこからさらに北に広がったのが南回りと言われる東アジア人のルートとされます。しかし一部にヒマラヤ山脈の北側から北回りルートでシベリアに入っていった人々がいました、この北回りの人々が広大なシベリアの各地に拡散したと見られています。ではアフリカで生まれた暖かい環境に適した人類がなぜ北回りの極寒の環境の中広がっていったのか、マリタ遺跡にこれの答えがありました。マリタ遺跡から出たマンモスの大腿骨を調べると骨を石器で割って中の骨髄まで掻き出して食べたのではないかと思われる跡が見られました。高カロリーの良質なタンパク質を摂れるばかりか、マンモスは燃料、衣類、建材、道具の材料とあらゆるのものが手に入る究極の獲物で、1頭しとめれば10人が半年食べれたと思われます。このマンモスをはじめとする大型哺乳類が生息したのがシベリアだったのです。

人類がシベリアに到達するよりも前の遺跡からは大型哺乳類を食べた痕跡はなく、道具もハンマーやナイフのようなものばかりで狩猟の道具は出ません。その頃まで人類は生きた大型哺乳類は食べず、植物食が主流だったと見られます。それがシベリアではにおいてはマンモスの骨とともに明らかに狩猟道具と思われる槍先のような軽くて鋭い刃を持つ石器が現れ、さらにはマンモスの牙性の槍先も出現します。植物資源の多い南の地域ではなく、大型哺乳類を食べるために狩猟道具を編み出さなくてはならなかった北の地域において道具は急速に進化してゆきました。それまでは手出し出来なかった大型哺乳類を仕留めるため、人々は知恵をしぼり、また連携プレイを行う中で言語によるコミュニケーションを発達させてゆきます。寒さを凌ぐ衣服や住居も開発され、肉を腐らせない保存という方法にいたるまで、シベリアの地で三万年前〜二万年前の間に人類は劇的な進歩を遂げました。その当時発明された最先端の道具が細石刃でした。このハンターたちの血は日本人にも流れている可能性が高いのです。

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縄文人は北方由来なのか

このようなデータの積み重ねによって、古人骨からのmtDNAの抽出・分析が縄文人南方由来説ではなく、むしろ北方由来説を証明するかも知れないこととなったのです。さらに2009年の研究結果によると、港川人は縄文人の祖先である、とする考えに疑問を投げかけるような分析がなされました。港川人は現在のオーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかというのです。国立科学博物館海部陽介研究主幹によると、港川人は本土の縄文人とは異なる集団だった可能性があり、5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来している。そしてその後に農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたのではないかという説なのです。

縄文人が南方由来であるという説は大きく揺らぎました。南方から渡ってきた人間がいないという意味ではありません。沖縄諸島経由で入ってきた南方の人々は必ずいたはずです。しかし南方から来た人たちが日本列島中に行き渡り、均質化された縄文人になったのではなく、少なくとも北方からやって来た人もいたことが分かります。

旧石器時代のシベリアのマンモスハンターが2万年前頃には樺太経由で北海道に達していた可能性は非常に高いと思われます。さらに取手の縄文人の解析結果を考えると、シベリア由来の人々がその後関東にも南下して来たことが分かります。

旧石器時代にシベリア経由で到達した ・・このルートは存在したようです。

(11)南方からやって来た縄文人

・マンモスハンターが来る以前
二万年ほど前にバイカル湖を経由した人たちが樺太を通って南下してきた確度はかなり高いことが分かりました。
あれ?でももう四万年前には少数ながら新人が日本列島に到達していたのではなかったか?(人骨が出なくても高い文明の跡・遺跡が見られている)となりますね。しかし関東に住んでいた縄文人バイカル湖由来と見られる人が多かったとは言え、南方由来の縄文人も少数見られました。となると、二万年前よりも古い時代に朝鮮半島沖縄諸島など、樺太とは違うルートでやって来た人がいるのでは、という事になります。話は九州に飛びます。

・南九州にあった独自の文化
どこからやってきたのかは別問題として、「縄文文化は東日本に花開いた」と最近まで考えられてきました。これは関東、北陸、北海道に東北、多くの縄文遺跡が圧倒的に東日本に集中していたためです。
しかし1990年代後半になんと南九州から驚くべき縄文遺跡が続々と発見されるのです。
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●栫ノ原遺跡・・・鹿児島県南さつま市加世田。1万2000年前の暮らしの跡が見つかります。ここには持ち運び用に適さない大きな石器や炉の跡が発見されます。イノシシの肉のような脂肪酸も土壌分析から出ており薫製を作ったと推定されています。隆帯文土器片が1000点以上と石鏃・石斧・磨石・石皿・削器などの石器も多量に出土しており定住生活の施設と道具類が開発されていたことを示しています。一方で竪穴住居は見られません。ここは夏だけの季節限定定住なのではないか?と考えられています。1万1000年~1万年前頃に桜島が大噴火したと見られており、そのサツマ火山灰によって覆われていることからそれ以前の1万2000年前頃の遺跡であることが判明しています。期間限定とはいえ人々がこの時代に定住していたというのは縄文草創期の概念を覆すものになりました。
また、刃部の丸くなった磨製石斧が発見されますが、これは南九州独特の石器で「栫ノ原型石斧」と呼ばています。丸木舟を製作するための道具なのではないかとみられており、南の島から来た海の民を思わせる重要な石器です。
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●掃除山遺跡・・・鹿児島市。ここも1万1000年~1万年前頃に大噴火した桜島のサツマ火山灰の下から発見されており、年代が判明しています。竪穴式住居や燻製施設が見つかりますが、ここでは冬の季節風を避ける向きで斜面に遺構が集中していることや土器や石皿、磨石などの遺物の量も少ないことから、冬の期間限定の定住をしていた場所ではないかと考えられています。竪穴住居は秋に採集したドングリやクルミの貯蔵施設を兼ねた越冬のための居住地なのではないかともみられています。地面に穴を掘って火をたいた調理用の施設、ドングリやクルミなどの木の実を割って砕いたりする石器が出土しました。これらの道具は時代と共に各地でその量が増えて縄文前期になると日本各地からもっともよく発見される道具となるのです。縄文時代の主食が、森の資源である木の実に移り変わったことを示しています。
●上野原遺跡・・・鹿児島県国分市。北に霧島、南に桜島を望む高台に9500年前という古い時代に人々が定住した痕跡が発見されます。ここがいま発見されているところでは「日本最古の定住集落」です。農耕を行わない時代の人々が当時最先端の「定住」というスタイルで、しかも東日本ではなく南九州の地で暮らしていたことは驚きの発見でした。栫ノ原遺跡、掃除山遺跡にみられる期間限定の定住の時代を経て、人々は上野原遺跡のエリアに完全に定住を始めていったようです。52軒の竪穴住居群を中心として39基の集石や16基の連穴土坑などの調理施設をもった集落が見つかっています。
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上野原遺跡
住居が重なり合っていることや、埋まり方に違いがみられることから、建てられた時期に差があり、上野原遺跡のムラはこの地に長期間にわたって営まれていたことがわかりました。また高台南側の最も高い所で、7500年ほど前とみられる地層からは、ひとつの穴に丸と四角の口をもつ2個の壺型土器が完全な形で埋めてありました。その周りには壺型土器や鉢形土器を埋めた11か所の土器埋納遺構と石斧を数本まとめて埋めた石斧埋納遺構が見つかり、これらを取り囲むように日常使用した多くの石器や割られた土器などが置かれた状態で出土しました。ここはまつりなど何らかの儀式が行われた場と考えられています。
このように南九州に高度な文化がみとめられます。縄文ならぬ、貝文土器とでもいうべきか貝殻で文様をつけた土器、そして角筒土器という口の部分が四角いデザインの土器など、非常に先進的なのも南九州の特長となっています。その独自性などから彼らはやはり南方由来の縄文人ではないかとみられているのです。日本列島の北方からやってきた人、南方からやってきた人がそれぞれ日本の各地に暮らし、縄文人は均質などではないことが判ってきました。

・南方由来の縄文人
これら南九州の文化を築いた人たちは、やはり沖縄諸島を渡ってやってきたのでしょうか。その南のルーツを知る手がかりは沖縄で発見されている旧石器時代の遺跡ということになるでしょう。沖縄本島の山下洞穴からは3万2千年前の人類化石が、宮古島からは2万5千年前の、久米島からは2万~1万5千年前の人類化石が見つかっています。3万2千年前には既に現生人類が沖縄で暮らしていようです。しかしこれらはどれも骨のほんの断片しか残っておらず、完全な人骨というと今のところ沖縄の具志頭村で見つかった港川人が唯一です。1万7千年前の港川人骨を分析することで彼らがどこからやって来て、その後の南九州につながるのかどうかが見えてきます。港川一号男性人骨は身長153Cm、小柄な熟年男性で、栄養状態はあまり良くなく、子供の頃に栄養不足からたびたび成長が止まった跡があります。上半身全体は華奢なものの、手の大きさは現代人並で握力は強かったようです。また足腰は強靭で野山を駆け回り食糧を探し回っていたことが読み取れます。頭蓋骨からも噛む力が現代人の2倍もあるなど歯を道具として使ったのであろうことが推察されます。
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最新の港川人の復元顔図このように顔の復元も可能なほど状態の良い港川人骨を、他のアジア人、特に時代の近い化石人骨と比較分析してみたところインドネシアのジャワ島で見つかったワジャク人骨に類似していることが分かりました。ジャワ島は古く110万年前にはピテカントロプスジャワ原人見つかったことでも有名です。ジャワ島は現在も日本の1/3ほどの面積に100以上の民族、日本と同等の1億2千万人が住んでいますが、各地の遺跡から100以上もの化石人骨が見つかっている人骨の宝庫でもあります。なぜこのような海に囲まれた島に原人の時代から旧人、新人と、どの時代にもこれだけ多くの人類がここにが集まって来たのでしょうか。。ここはかつて島ではなく、幻の古代大陸「スンダランド」だったのです。


・スンダランド
100年ほど前のオランダが行なった調査で、インドネシア海域の大陸棚の水深図から、海底にいくつもの谷筋が見つかりました。これはこの海底にかつて川が流れていたことを示しています。その後の地質学などの発展により、この大陸棚全体、東南アジアが大きく陸続きだったことが解明されます。分厚い氷河が存在して海水が少なくなっていた2万年前の最終氷期、スンダランドは今の熱帯雨林気候よりも5~7度気温が低く、やや乾燥していて、草原と森が混在するようなとても過ごしやすい気候でした。人類の故郷アフリカの気候にも似ていたと思われます。ジャワ島のワジャク洞窟から北に1000キロ、マレーシアのボルネオ島もスンダランドの一部でした。ボルネオ島の巨大洞窟「ニアー洞窟」では4万年前~1万年前という氷河期の人々の暮らしの跡が発見されます。入り口の高さがビル10階ほど、60メートルもある洞窟の中の空間は実に東京ドームが2つ入るという大変な広さがあります。ニアー洞窟の人骨は断片であるため人類学的な資料にはなりにくいそうですが、ここからは生活を知る重要な道具が見つかっています。物を切るために使われた「剥片石器」これは竹を加工して他の道具を作るためにも用いられました。また物を砕くチョッパーも見つかっています。剥片石器はその形状にスンダランドならではの特徴がありますが、大きさや薄さも含めそっくりなものが奄美大島の土浜遺跡でも発見されており、日本列島との関連性を示す証拠になっています。さらにニアー洞窟では猿・豚・サイなどの食べかすや貝殻も出土しました。中には南九州で貝文を土器に刻んだハイガイと同じような貝も含まれています。スンダランドは今よりも涼しく乾燥し、森や草原や海にも恵まれ、動物も豊富にいる当時の楽園であったのです。遠く西からやってきた人類はスンダランドに多くが集まってきました。

・海を越えた人々
アフリカを出た人々が遥か東のスンダランドにやって来て、その楽園に定着したのは理解できますが、その後なぜ人々はスンダランドを起点にさらに拡散していったのでしょう。これには環境の面が大きく関わっているようです。スンダランドは水深の浅い大陸棚が、海面の低下した時代に陸地化したものでした。そのため地球環境の変化で海面が上がり下がりする度にその影響をもろに受けて、陸地の面積が大きく広がったり狭くなったりしたとみられています。楽園には陸の面積が広がった時代には人々が一気に集中し、狭くなったら今度は収容できなくなった人たちが押し出されるという現象が長い間に繰り返されたようです。押し出される、と言うのは狭くなったスンダランドから新天地を求めて出てゆく人たちがいたという意味です。
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中には既に6万年前~5万年前に、遥か海を越えることに成功した先人も存在しました。その成功者
、偉大なる海の民、彼らの子孫こそがオーストラリア先住民のアボリジニなのです。アボリジニに伝わる神話には「祖先は貝殻を櫂にして漕いで海を渡ってきた」という伝承があります。今はすっかり陸の生活をしていて、海の民には見えないアボリジニにちゃんと海を越えてやって来た神話が残っているのです。オーストラリア北部のアーネムランド半島カカドゥ国立公園、ここの遺跡の岩壁にはアボリジニの先祖が描いた動物などの壁画があります。1990年、その壁画の下から複数の剥片石器が出土しました。残っていた木炭を調査すると6万年前~5万年前という極めて古い年代が測定されました。かつてスンダランドがあった時代のオーストラリアはニューギニアと陸続きで、こちらには古代大陸「サフルランド」が存在しました。しかしスンダランドとサフルランドの間には海溝があり、陸続きになった時代は過去に存在しないのです。つまり彼らアボリジニの先祖は5万年よりも前に、スンダランドから海を渡り、島伝いにサフルランドへ到達したことが分かります。このような時代にいったいどうやって海を越え遥かなオセアニアに渡ったと言うのでしょうか。。

(9)旧石器時代の日本

旧石器時代の遺跡(確定版)

今度こそ。近年確度が高いことになっている遺跡たちをご紹介します。

 

田名向原遺跡(2万年~1万8千年前)・・・後期旧石器時代相模川べりに位置していたと推定されています。1997年の調査で建物跡と推定される遺構が発見されました。直径約10メートルの円形の範囲を円礫(川原石)で囲んだもので、内部からは柱穴12基と焚き火跡2箇所もあわせて確認できています。また、二次加工をともなう剥片や大量の母岩・石核も集中して見つかっていて、旧石器時代人の石器製作の場として利用したことがうかがわれます。また、槍先形石器の石材には長野県産、伊豆産、箱根産の黒曜石が用いられていることから遠隔地との交流も見えてきます。成形された石器には尖頭器193点のほかナイフ形石器50点あまりが出土しました。サケ・マス類の季節的・集約的な漁場につくられた半定住住居なのではないかとも言われ、建物跡は、炉跡、柱穴、外周の円礫群などをともない、確実なものとしては日本列島最古の建物跡となっています。

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田名向原遺跡公園

 

函館市桔梗2遺跡(2万数千年前)・・・北海道に旧石器時代のものではないかと思われる遺跡がいくつかあり、もっとも古いとみられるものが函館で見つかっています。これによりウルム氷期(最終氷期)に、アイヌの祖先が今の北シベリアから来たと考えられています。

 

岩宿遺跡(2万5千年前)・・・1946年、相沢忠洋は、群馬県岩宿の関東ローム層の露出している赤土の中から黒曜石で作られた石器を採集します。そのころの日本の考古学者の常識ではこの地層は縄文文化最古の遺物を含む地層よりはるかに古く、人類遺物の存在するはずがないとされていました。相沢氏の発見を重大とみた芹沢長介氏はが当時所属していた明治大学考古学研究室の杉原壮介助教授にこれを報告し調査がおこなわれ、日本における旧石器時代の存在が初めて立証されます。日本でも縄文時代以前に人が住み、石器の組み合わせと製作技法によって分類できる、いくつかの段階があることがここに明らかにされたのです。

 

高原山黒曜石原産地遺跡群(4万年前)・・・高原山の黒曜石が旧石器時代縄文時代に関東地方で広く利用されていたことは、昭和30年代から知られていました。田村隆氏は2005年7月24日に単独で高原山にて調査を実施し剣ヶ峰と大入道の中間位置の斜面に黒曜石の角礫が多量に分布し、その中に石器の剥片を多数発見しました。直後に石器石材研究会が調査に入り、旧石器時代に石核が搬出され、石器も作製されたことが判明します。知的で効率的な作業の痕跡が確認されたのです。

 

野尻湖遺跡群(4万8千年前~3万3千年前)・・・野尻湖湖底及び湖西岸から南側にかけての丘陵地帯に点在する野尻町の39ヶ所の遺跡の総称です。その中のひとつ、中期旧石器時代の立が鼻遺跡では、約4.8万年前から約3.3万年前までの地層からナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの化石と解体に使用したとみられる骨器や石器などの道具類が一緒に出土し、旧石器時代で大型獣を解体した跡を残している遺跡は世界的にも僅かなため、大変貴重とされています。

 

金取遺跡(9万年前)・・・岩手県宮守村の金取遺跡は1984年に武田良夫さんによって発見されて、1985年に金取遺跡発掘調査団(団長 菊池強一さん)が本格的な発掘調査を行います。調査では、中期旧石器時代のものと考えられる石器が40点が出土し、現在は、捏造の及んでいない中期旧石器時代の遺跡として注目されています。2003年になり、石器が出土した最下層は9~8万年前に九州から北海道まで飛散した「阿蘇4火山灰」であることが判明し、中期旧石器時代の遺跡ということが裏付けられました。

 

入口遺跡(10万3千年前)・・・長崎県平戸市山中町の段丘状の開発に伴い1999年~2003年にかけて平戸市教育委員会によって緊急調査が数カ所で実施され、10万3000年前および9万年前と考えられる二つの地層から瑪瑙製の石器が見つかりました。石器は平戸市が99年から02年の発掘調査で出土しました。その後台形状剥片4点、嘴状石器1点、スクレイパー4点、ハンマー・ストーン2点、礫器、石核、剥片、砕片が出土しています。

 

砂原遺跡(11万年前)・・・島根県出雲市多伎市で、2009年9月29日松藤和人同志社大学教授を団長とする発掘調査団が約12~11万年前の地層から、旧石器20点が見つかったと発表しました。玉随製剥片、石英製の石核、小さな剥片色々、石英の塊;敲石ハンマーストーンなどが見つかっています。

 


旧石器時代の日本の生活
信頼性の高い遺跡を紹介させていただきましたがこれでようやく旧石器時代の生活が少しだけ見えてきました。しかし日本は酸性土壌であることから、とにかく古い人骨が残っていません。人のいた痕跡・道具はありますが、人骨が出ないのです。現生人類が日本列島に入ってきたのはいつだったのでしょうか。そしてそれ以前に日本列島に居たであろう人類(旧人・原人?)にどのように取って代わっていったのでしょうか。

旧石器時代の遺跡は列島内で5000箇所以上発見されているにもかかわらず、住居の痕跡がほとんど発見されていません。そのことから旧石器時代の人々は、列島での大型の哺乳動物が絶滅する更新世末まで、獲物を追ってキャンプ地を転々とする移動生活をしていたと想定されています。

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・陸続きではなかった日本列島
日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったの500万年前でした。まだユーラシア大陸と陸続きな状態でしたが、その後、噴火による地殻変動があり、氷期間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こりました。日本列島には北、西、南、つまり間宮・宗谷・津軽対馬海峡や朝鮮などを通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられていて、それらの動物を追って原人もアジアに広がりました、日本にも渡ってきたのだろうと言われています。北海道は氷河期に大陸とつながったため、マンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることができました。またナウマン象は約35万年前に日本列島に渡ってきて約1万7千年前に絶滅しています。

そして従来の学説では氷河期の最寒期、2万年前頃には日本列島はが大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたと言われてきました。これは常識であり、大前提になっていました。それがなんと、近年の研究で氷河期の最寒期でも津軽海峡対馬海峡には海が残り、大陸と日本列島(北海道は除く)は陸続きにならなかったことが判明したというのです。これは衝撃的なことです。この頃に現生人類が日本に渡って来るには、航海をしなくてはやって来れないことになってしまいました。f:id:akikusah:20171005125653p:plain

北海道しか陸続きにならなかった??

また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島で産出されたとみられる黒曜石が、関東地方の後期旧石器時代3万8千年前の遺跡で発見されています。このことから日本人の祖先はこの頃既に意図的な航海が可能だった、つまり舟に乗って日本列島にやってくることが可能だったと主張する研究者が出てきました。これについては研究が進み始めているのですが、にも関わらずこの時期の船の遺物が発見されないため、航海説には反対意見もあるようです。

いまちょうど国立科学博物館主催で3万年前の航海徹底再現プロジェクトを行っていますね。台湾から沖縄諸島(3万年前の遺跡の箇所をたどり)経由で日本にたどり着くことができたのかという実証実験です。

3万年前の航海 徹底再現プロジェク

 

・原人が高度な知能を持っていた?

磨製石器新石器時代(BC8500年~/日本では縄文時代)を代表する道具で、世界で広く使われました。しかし日本では既に旧石器時代・3万8千年前には「刃部磨製石斧」が製作されていて(日本とオーストラリアのみ)日本では独自の文化が形成されていたことがうかがえるのです。さらにこの刃部磨製石斧は3万年前には見られなくなってしまいます。これは現生種以前の人類たちに磨製石器を作る知能が備わっていたという証拠なのでしょうか?また前述の4万年前の高原山の遺跡から見つかった知的で効率的な作業の痕跡はこれも現生種以前の人類たちの仕業なのでしょうか?それとも現生人類が4万年前には日本に渡ってきてこれらの文化を世界に先駆けて生み出したのでしょうか。

人骨が出ない日本では現在ここは解明されていません。非常に興味深く、解明が待たれます。

2008年になってロシア・モンゴル・中国の国境に近いデニソワ洞窟で人骨のかけらや歯が見つかります。2010年DNAの解析によりこれは未知の人類の化石と判明します。デニソワ人と呼ばれるこの人類は大きくホモ・サピエンスに属し、80万4千年前に現生人類と分岐し、40万年前~30万年前にアフリカを出て中東へ行きます。そして中東からヨーロッパに広がったのがネアンデルタール人となり、中東からアジアに広がったのがデニソワ人の系統だと言われています。その後遅れてアフリカを出た現生人類はヨーロッパやアジアでネアンデルタール人やデニソワ人とも交雑したため、現代人にもネアンデルタール由来、デニソワ由来の遺伝子構造が見られるのです。アジアに広がったデニソワ人系統が日本にやってきた可能性もあります。デニソワ人は現生人類との交雑も見られる事から分かるように、知能の高い人類だった可能性があるのです。

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現生人類がアフリカを出る10万年前より早く、40万年前~30万年前にホモ・サピエンスに属するデニソワ人やネアンデルタール人といった系統がアフリカを出て世界に広がった事が判ってきました。一時はウヤムヤになっていた「旧人」(※ネアンデルタール人に代表される)と呼ばれていた存在は、やはり存在したようなのです。

 

私個人的には様々な状況をあわせると、ホモ・エレクトスなどの「原人」はアジアに拡散したが、日本列島にまでは到達できなかった。しかし11万年前よりも以前のかなり古い時代からデニソワ人などの「旧人」は日本に到達していて、生活の痕跡を残した。さらに4万年前頃にはもう舟に乗った現生人類、「新人」が海を渡って日本列島に到達し始めたのだろうと考えていますが皆さんはいかがでしょうか?

つづく

 

(8)日本に到達した現生人類

・日本へ到達した現生人類
前回書いた通り、ホモ・サピエンス類は30万年より前にはアフリカで出現し、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)に進化をしながら、10万年前頃にはアフリカ大陸から出始め、世界を旅して広がって行ったと考えられています。現生人類は時間をかけ全世界の隅々に到達しました。アフリカを出た10万年前は旧石器時代にあたります。

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 遺跡から見た現生人類(新人)拡散の推定

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現生人類(新人)拡散の推定時期

 

旧石器時代
前期旧石器 13万年以前
中期旧石器 13万年前~3万年前
後期旧石器 3万年前~1万3千年前
旧石器時代はこのように時代分けがされています。10万年前頃にアフリカを出た現生人類は後期旧石器時代、4万年前~3万年前には日本列島にも到達したと見られています。アフリカをあとにして広がった人類は大きく3つのグループに分かれたと言われていますが、Y染色多型体の分析による最新の結果では、日本には
旧石器時代にシベリア経由で到達した
旧石器時代華北朝鮮半島経由で到達した
弥生時代に同じく華北朝鮮半島経由で到達した
④南方から沖縄経由で到達した。 ということが解ってきました。
日本列島には大きく別れた3つのグループ+αが全て時代差で集まっている可能性が出てきています。これは全世界的に見て他に類の無い特異なものです。

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Y染色体を用いて推定される現生人類(新人)の拡散ルート

上記の発掘・発見地から見る拡散の軌跡とほぼ同じルートを示すがアジアに展開してからの分岐が詳細不明となっている。

 

しかし日本では4万年前~3万年よりずっと古い時代の遺跡も発掘されていて、これは現生人類が到達する前に、原人なども日本で暮らしていた証拠なのではないかと思われます。以前は旧石器時代のかなり早い時期から日本列島にも人(時代的に現生人類ではなく原人・旧人)が暮らしていたという見方が確定的でした。捏造事件以前は。。。。。

捏造事件とはどのようなものだったのか。

日本で見つかっている旧石器時代の遺跡を確認しておきましょう。

 

旧石器時代の遺跡(残念版)

○捏造事件の遺跡たち・・・60万年前「上高森遺跡」、50万年前「高森遺跡」、35万年前「長尾根遺跡」、14万年前「馬場壇遺跡」
アフリカ起源とされるハンドアックス(握斧)、クリーバー(鉈なた状石器)、メノウの石核、尖頭器せんとうきなど大変価値のあるものが前期旧石器~中期旧石器時代の地層から発見され、日本全土に原人が存在していた証拠とみられていました。
その後、これらの出土は藤村新一による捏造と判明しました。藤村は1970年代半ばから各地の遺跡で捏造による「旧石器発見」を続けていましたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日に毎日新聞にスクープされます。出土品は藤村が事前に発掘現場に自ら仕込んだものでした。藤村の捏造関与した遺跡は次々と明るみになり、範囲を広げ、大事件に発展します。これらの出土品はおそらく藤村所有の縄文時代のものと考えられていますが、実際どこからの物であったのか藤村自身も明らかにせず、闇の中となってしまいます。藤村の成果をもとに築かれた日本の前・中期旧石器研究は全て瓦解し、東北旧石器文化研究所は解散に至っています。捏造遺跡は学会から抹消されました。遺跡は観光の目玉とされている場合も多くありました。藤村は法律上犯罪を犯してはいないという見方もあるようですが、多くの人たちを裏切り失望させ傷つけるとんでもない事件であり、決して許されるものではありません。日本には前期~中期旧石器時代の確実な遺跡は存在しないという結果になってしまいました。

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藤村新一・・・毎日新聞のスクープ写真

 

○明石原人・・・1931年明石市西八木の海岸において直良信夫が極めて古い人骨を発見する。直良氏がアマチュアであったため当時の学界はこれを無視、旧石器時代の人骨ではないかという直良の主張が認められることはありませんでした。その後、直良は同地点で発見した動物化石や石器を元に旧石器文化の存在を主張し続けましたが、東京の空襲で人骨は焼失してしまいました。しかしこの人骨の石膏模型が取られており、1947年になってこれが発見され、東大理学部人類学科教授の長谷部言人が石膏模型計測します。結果、壮年男性の腰骨だが現代人に比べて類人猿に近い特徴を有すると指摘、シナントロプスやピテカントロプスとほぼ同時期の原人のものであると主張して「Niponanthropus akashiensis (ニポナントロプス・アカシエンシス)」の通称を与えたのです。さらに長谷部は直良の「パラステドンの化石と同じ地層から発見した」という証言から、この人骨はシナントロプスよりも古い人類のものであり、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した証左だと結論づけました。しかし化石の現物は焼失しており、疑問を呈する研究者も多かったことから1947年10月20日から長谷部を調査団長とする西八木海岸の発掘が行われます。しかし、直良について長谷部が「オブサーバーとしてなら参加を許す」としたことから、怒った直良が参加を拒否、調査団は直良の化石発見地点から80mも間違った所を発掘してしまい、200万円(当時)ものお金を使ったにも関わらず人骨や石器はおろか動物化石すら発見できないという結果に終わりました。1982年になってコンピューターにより石膏模型を解析したところによると、これは原人ではなく縄文時代以降の新人であろうという結果になりました。1997年に近隣の藤江川添え遺跡で中石器時代のものとみられるメノウ製の斧が発見されますが、今も直良の明石原人がその段階の人骨であったのかは謎のままなのです・・・

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200万て今の価値にすると。。。

 
○牛川人・・・1957年豊橋市牛川町の石灰岩採石場より出土した女性の左上腕骨が発見されたことが鈴木尚ひさしによって報告されます。現在日本で発見されている人骨では最古ともされます。この人骨の推定身長は135cmほどで小柄でした。しかしその後ナウマンゾウのスネ骨である可能性が高くなっています・・・

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ナウマンゾウの間違いなんてことがあるのでしょうか?

 

○葛生原人・・・1950年、あの明石原人の直良信夫が佐野の葛生の石灰石地帯で化石人骨を発見し、ネアンデルタールに類似した旧石器時代の人骨として紹介されました。2001年に骨の再調査がなされ、結果、8点の骨のうちにはクマ、トラ、サルの骨の誤認があった上に人骨は14~15世紀の人骨であること、つまりかなり新しい時代のものということが判明したのです。原人をネタに町おこしをしていた葛生町でしたのでこれは何とも、、、2001年になって、、ねぇ、、という感じです。

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町おこし。 佐野は大変良いところです。ラーメン・さのまる・いもフライ

 

○三ヶ日人・・・これも教科書で習った名前でしょう、三ヶ日人。1959年に発見された人骨は旧石器時代のものと考えられていましたが、後にお茶の水女子大学生活科学部の松浦秀治助教授らによる放射性炭素法による年代測定をしたところ、約7500~9500年前の縄文時代早期のものである結果が出てしまいました。

 

 ○聖岳人・・・1962年大分県南海部郡本匠村の聖岳洞窟から1万4千年前の後頭部の骨が発見されます。日本旧石器人の中で唯一この人骨だけが旧石器を伴って見つかりました。後頭部が突出する特徴は中国北部の上洞人に似ているとされ高校の教科書にも掲載されました。しかし2000年8月28日の新聞各紙やテレビ報道で調査、人骨が当初の発表された旧石器時代のものではないと報道されました。「発掘された旧石器は混入された可能性が高い」と指摘する報告書が国立歴史民俗博物館教授の春成秀爾により出され、聖嶽洞窟遺跡の捏造疑惑に発展していました。

 

○早水台遺跡・・・1950年代に大分県速見郡日出ひじ町で、芹沢長介氏らによって石英脈製の石器類などが発見され、研究の結果、これらの石器は、チョッパー(片刃の礫れき器)、チョッピングツール(両刃の礫れき器)、ハンドアックス(握斧あくふ)など古い様相を示す石器が主体をなしており、12~10万年前のものと推定されます。しかし最近の研究では大きくずれた4万年前以降に位置づけられる可能性が高いとされ、ハッキリしません。


はっきり言いますが、、残念なものばかりですね(笑)

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藤村だけは本当に笑えないよ

これらは「残念版」ですからご安心を。次回はまともな遺跡を紹介します。

 

つづく