「日本人はどこから来たのか」 寺社仏閣 古墳

日本人はどこから来たのか。寺社仏閣、古墳など史跡をめぐりながら考える。

(10)北方からやって来た縄文人

縄文人
縄文時代は1万3000年前頃に始まるとされています。
土器の使用や農耕狩猟採集経済、穴式住居の普及による定住化などが旧石器時代から移行するその指標となっています。また縄文時代の終わりについては紀元前(BC)4世紀頃となっていますがこれも徐々にズレるなどしています。この時代に日本列島に暮らし、縄文文化を持った人々の総称を縄文人といいます。

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旧石器時代に日本に渡ってきた新人がそのまま新しい文化を持つに至り徐々に縄文人になったのか、または新たに日本列島に人々の流入があったのかは様々な説があります。しかし旧石器時代にも、縄文時代にも、それぞれ日本列島へ人の流入があったのは確かだと思われます。そのことから考えると旧石器時代に列島に渡ってきた人々がそのまま進化していった集団と、新たに日本列島に(複数ルートで)渡ってきた集団と、両方混在していたと考えるのが自然であると思います。

日本は土壌の問題で1万年以前の人骨はほとんど見つかりません。日本列島の古い化石人骨と言えば1万年前以降、つまり縄文人のものになります。近年DNA分析技術が急速に進歩し化石人骨のDNAを読み取ることが可能になってきました、この技術で縄文人のDNAを探ることができます。これは原日本人を解き明かす上で非常に有効です。時代が下った後年の人骨と比べ遥かに混血が少ない縄文人は、日本人の原型に近い姿を見せてくれるはずです。

 

・列島へのルート

(8)項の冒頭、日本人のやってきたルートについて以下のような整理をしました。

旧石器時代にシベリア経由で到達した
旧石器時代華北朝鮮半島経由で到達した
弥生時代に同じく華北朝鮮半島経由で到達した
④南方から沖縄経由で到達した。

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これら大きく4方面からの日本列島への流入、これは本当に正しいのでしょうか。諸説あり大いに議論されています。


・埴原和郎説、日本人の二重構造モデル

これは1990年の国際日本文化研究センター開催の国際シンポジウムで、埴原和郎氏が発表した大変ポピュラーな、また支持を集めた説です。
 (1)旧石器時代の港川人と縄文人は、古く東南アジアに住んでいた原アジア人の系統で、縄文人はほぼ均質の集団だった。
 (2)渡来系弥生人は寒冷適応を遂げた北アジア人の系統で、日本列島で縄文系集団と共存・混血するようになった。
 (3)北アジア系の渡来は弥生時代古墳時代を経て初期歴史時代まで続き、日本列島における二重構造が明瞭になってきた。とくに古墳時代以後は、東日本(縄文系)と西日本(渡来系)の差が明瞭になった。
 (4)アイヌと沖縄の集団は渡来系集団の影響を受けることがきわめて少ないか、またほとんどなく、縄文系集団がそのまま小進化したものと思われる。
 (5)現代の日本および日本文化にみられる地域性は、縄文系の伝統と渡来系の伝統との接触の程度が異なることから生じ、時代が下るにしたがって種々の地域的要因(たとえば気候、国内の移動、政治的影響など)が付加されることによって現在の状況が作られてきたと思われる。

以上のように埴原氏は主張しています。約20000前に沖縄にいた港川人、それと縄文人は同じ系統である、つまり「縄文人は東南アジアから台湾~沖縄諸島を通って日本列島にやってきた、そして弥生時代に入ってから北アジア人が新たに渡来してきて縄文人と混血したのだ」という説です。この説の通り縄文人は東南アジア由来なのでしょうか。

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※港川人=沖縄県南部で見つかった約2万年前とみられる人骨。最近まで縄文人の祖先というのが定説だった。

 

・インディアンと日本人

少し話が脱線します。1986年、アメリカ・フロリダ州の湿原でミイラ化したヒトの脳組織が発掘され、このミイラは年代測定の結果、7,000年前のものと判明し、この脳組織はアメリカインディアンの祖先のものとされました。この脳組織からまず、微量のmtDNA(ミトコンドリアデオキシリボ核酸)の抽出し、次に当時最新の画期的なDNA増幅技術・PCR法を使って、mtDNAの一部を増幅し塩基配列(DNAの文字配列)の決定に成功します。
その結果大部分の現代人では“GGGCCC”という文字列になっている塩基配列が、このミイラは“GGACCC”と特徴的なものになっていたのです。そこでまず現代インディアンのなかにGGACCCの塩基配列を持つ人がいないかを調べましたが全く見出すことができません。調査範囲を世界中の現代人に広げると、なんと日本人の5人がミイラと同じGGACCCという配列であることが明らかとなったのです。このような変異型のDNA配列を持つミイラと現代日本人の一部が偶然一致するとは起こり得ないといいます。従って、現代日本人と7,000年前に生きていた北米のインディアンが、遺伝子のレベルで共通の基盤を持っていたことが判明したのです。これは、はるか昔アメリカインディアンの祖先が、北アジア、シベリアからベーリング陸橋を渡って北米大陸に移住したことを意味します。アメリカインディアンは日本人と同じアジアに起源する民族だという説は以前からありましたが、これがDNAにより証明されました。すると日本人はどこかの時代でシベリア、北方からの流入経路があったことになりそうです。

 

縄文人は東南アジア由来か

話は戻って、縄文人は本当に東南アジア由来と言えるのでしょうか。 1990年、日本の人骨分析のパイオニアである宝来聰教授はフロリダのミイラというような考古学的試料から塩基配列が決定できるという画期的成功に啓発され研究を重ねていました。そういう折に埼玉県浦和市で5900年前・縄文時代前期の人骨(浦和1号)が発掘されるのです。宝来教授はこの浦和1号からmtDNAを取り出し塩基配列を解読しました、するとこの日本最初の縄文人人骨サンプルである浦和1号の縄文人骨から、ミトコンドリア配列で明らかに東南アジア人であるDNAが検出されたのです。それまではDNA分析ではなく、主に考古学の主観的な手法か民族学での骨格分類解析くらいからしかおこなわれていませんでした。「日本人は南方系と北方系の混血だろう」くらいに考えられていたのです。そこに新技術導入によりこの「東南アジア由来」という結果が現れたのです。

その後この東南アジア由来の縄文人と、現代人121人との塩基配列との比較分析を行います。すると現代の日本人62人の中には浦和1号と完全一致する人は1人もいませんでした。また190塩基中1ヶ所だけが違う近似の日本人が15人、2ヶ所違う日本人が8人という結果が出ました。一方で日本人以外の現代中東南アジア人2人(マレーシア人とインドネシア人)が浦和1号の配列に完全に一致しました。
つまり現代日本人は、5900年前の浦和に住んでいた縄文人と比較すると、かなり混血などの変異が進んでいるようで2/3近くの人が違う系統(塩基数が3個以上違う)ということになりました。一方で現代の東南アジア人と浦和1号縄文人は共通の起源を持つ可能性が高いということです。この浦和1号はまさに埴原和郎氏の縄文人南方起源説を証明したことになりました。これで二重構造モデルは確定的、縄文人は主に東南アジア由来であるということで、起源論争には終止符が打たれたかに見えました。

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縄文人は東南アジア人という説への反証 

宝来教授のmtDNAの先駆的研究は、人類学の分野に新風を送り画期的な成果をあげました。しかし、浦和1号わずか一体だけで日本人の南方起源を判断するのは早計だということは宝来教授自身十分認識しており、その後も精力的な調査をおこないます。
宝来教授は戸田市で発掘された縄文前期人1人、北海道高砂遺跡出土の縄文後期人3人の古人骨データを解析し、アイヌや現代の世界中の人々との関係を調べます。するとmtDNA配列は日本本土人、漢族、フィリピン人、台湾原住民と東アジア全体に見られたのです。

 戸田出土縄文人

 =本土人アイヌ、沖縄人、漢族、韓国人、台湾原住民

 北海道高砂遺跡出土縄文人

 =本土人アイヌ、沖縄人、漢族、韓国人、台湾原住民

この通り浦和1号は1サンプルに過ぎず、埼玉県戸田市と北海道の縄文人は現代本土日本人・アイヌ人・沖縄人と同配列のmtDNAを共有していたのです。(縄文人が現代の日本人とまるでつながらなかったら大変なことですので、、少しホッとするような結果です)

 

・日本人バイカル湖畔起源説と中妻貝塚

また1972年に発見されていた取手市「中妻貝塚」の集中人骨埋葬土壙の人骨の一部を、佐賀医科大学の篠田謙一氏がmtDNA分析します。その結果はNHKスペシャル「日本人 はるかな旅」でも取り上げられました。「DNA分析の結果、シベリアのブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した」と紹介され話題を呼んだのです。29体の縄文人のうち1体が韓国人と一致、1体が台湾に住む中国人、1体がタイ人、そして実に17体がシベリア平原に暮らすブリヤート人とDNA配列が一致しました。(残り9体は一致するデータなし)浦和1号とさほど離れていない取手の中妻遺跡人の中に、北方アジアを故郷に持つ人がこれだけ高確率で出て、しかも東南アジア人のものは全く出ませんでした。それ以前から一部研究者の間に存在した「日本人バイカル湖畔起源説」がにわかにクローズアップされ始めます。

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バイカル湖の位置

NHKの取材班は真相を探るべくブリヤートのマクソホンという1600人の村に飛びます。縄文人と完全一致のDNAが見つかったサンプル17人はこの村のものでした。吹きさらしの大雪原の中にあるこの村で取材班は先祖にまつわる話、村の歴史を尋ねます。しかし村民の返事はまるで要領を得ません、聞けばブリヤート人ロシア革命以前、最近まで家畜とともに草を求めて移動する遊牧生活を守ってきたために、ロシアによる政策で初めて定住して村で畜産業を営むことを知ったと言うのです。これでは民族の歴史はたどることができません。しかしこのシベリアの地、バイカル湖周辺といえば、考古学上の常識を覆した驚愕の遺跡、世界に有名なマリタ遺跡が存在します。

 

・マリタ遺跡

1928年シベリア野村民が偶然大量のマンモスの化石を発見します。分析の結果2万3千年前の貴重なものと判りました。しかし興奮はこれでは終わりません、マンモスの骨に混じって数多くの石器や火を炊いた炉の跡が発見されたのです。調査は拡大し円形の住居跡、幼児の墓、マンモスの牙から作った女性の人形までもが発見されます。シベリアで氷河期の真っ只中に人が文化的な暮らしをしていた。世界的なニュースでした。

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マリタ遺跡出土のマンモスの牙から作った人形

シベリアでは200近くの遺跡が発見されています。考古学上の研究からは四万年前にシベリアに到達した新人は二万年前には広大なシベリアの隅々まで広がったと考えられています。この中から果たして日本に到達した人々がいたのでしょうか。このシベリアの人類の間で生まれ広く使われた特徴的な道具に「細石刃」という付け替え用の非常に小さく細やかな石器があります。この細石刃が2万1千年前からシベリアで使われだしますが、その細石刃が2万年前の北海道・千歳の遺跡を最古として日本でも数多く発見されているのです。この非常に繊細な石器が多く発見されるのは、シベリアと日本だけだと言います。考古学上シベリアから樺太、北海道という文化の流入があったという仮説は十分に成り立ちそうです。

 

 ・マンモスハンター

アフリカを出た現生人類は各地に拡散して行きましたが、この時東南アジアのスンダランドに向かいそこからさらに北に広がったのが南回りと言われる東アジア人のルートとされます。しかし一部にヒマラヤ山脈の北側から北回りルートでシベリアに入っていった人々がいました、この北回りの人々が広大なシベリアの各地に拡散したと見られています。ではアフリカで生まれた暖かい環境に適した人類がなぜ北回りの極寒の環境の中広がっていったのか、マリタ遺跡にこれの答えがありました。マリタ遺跡から出たマンモスの大腿骨を調べると骨を石器で割って中の骨髄まで掻き出して食べたのではないかと思われる跡が見られました。高カロリーの良質なタンパク質を摂れるばかりか、マンモスは燃料、衣類、建材、道具の材料とあらゆるのものが手に入る究極の獲物で、1頭しとめれば10人が半年食べれたと思われます。このマンモスをはじめとする大型哺乳類が生息したのがシベリアだったのです。

人類がシベリアに到達するよりも前の遺跡からは大型哺乳類を食べた痕跡はなく、道具もハンマーやナイフのようなものばかりで狩猟の道具は出ません。その頃まで人類は生きた大型哺乳類は食べず、植物食が主流だったと見られます。それがシベリアではにおいてはマンモスの骨とともに明らかに狩猟道具と思われる槍先のような軽くて鋭い刃を持つ石器が現れ、さらにはマンモスの牙性の槍先も出現します。植物資源の多い南の地域ではなく、大型哺乳類を食べるために狩猟道具を編み出さなくてはならなかった北の地域において道具は急速に進化してゆきました。それまでは手出し出来なかった大型哺乳類を仕留めるため、人々は知恵をしぼり、また連携プレイを行う中で言語によるコミュニケーションを発達させてゆきます。寒さを凌ぐ衣服や住居も開発され、肉を腐らせない保存という方法にいたるまで、シベリアの地で三万年前〜二万年前の間に人類は劇的な進歩を遂げました。その当時発明された最先端の道具が細石刃でした。このハンターたちの血は日本人にも流れている可能性が高いのです。

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縄文人は北方由来なのか

このようなデータの積み重ねによって、古人骨からのmtDNAの抽出・分析が縄文人南方由来説ではなく、むしろ北方由来説を証明するかも知れないこととなったのです。さらに2009年の研究結果によると、港川人は縄文人の祖先である、とする考えに疑問を投げかけるような分析がなされました。港川人は現在のオーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかというのです。国立科学博物館海部陽介研究主幹によると、港川人は本土の縄文人とは異なる集団だった可能性があり、5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来している。そしてその後に農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたのではないかという説なのです。

縄文人が南方由来であるという説は大きく揺らぎました。南方から渡ってきた人間がいないという意味ではありません。沖縄諸島経由で入ってきた南方の人々は必ずいたはずです。しかし南方から来た人たちが日本列島中に行き渡り、均質化された縄文人になったのではなく、少なくとも北方からやって来た人もいたことが分かります。

旧石器時代のシベリアのマンモスハンターが2万年前頃には樺太経由で北海道に達していた可能性は非常に高いと思われます。さらに取手の縄文人の解析結果を考えると、シベリア由来の人々がその後関東にも南下して来たことが分かります。

旧石器時代にシベリア経由で到達した ・・このルートは存在したようです。