(8)日本に到達した現生人類
・日本へ到達した現生人類
前回書いた通り、ホモ・サピエンス類は30万年より前にはアフリカで出現し、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)に進化をしながら、10万年前頃にはアフリカ大陸から出始め、世界を旅して広がって行ったと考えられています。現生人類は時間をかけ全世界の隅々に到達しました。アフリカを出た10万年前は旧石器時代にあたります。
遺跡から見た現生人類(新人)拡散の推定
現生人類(新人)拡散の推定時期
・旧石器時代
前期旧石器 13万年以前
中期旧石器 13万年前~3万年前
後期旧石器 3万年前~1万3千年前
旧石器時代はこのように時代分けがされています。10万年前頃にアフリカを出た現生人類は後期旧石器時代、4万年前~3万年前には日本列島にも到達したと見られています。アフリカをあとにして広がった人類は大きく3つのグループに分かれたと言われていますが、Y染色多型体の分析による最新の結果では、日本には
①旧石器時代にシベリア経由で到達した
②旧石器時代に華北・朝鮮半島経由で到達した
③弥生時代に同じく華北・朝鮮半島経由で到達した
④南方から沖縄経由で到達した。 ということが解ってきました。
日本列島には大きく別れた3つのグループ+αが全て時代差で集まっている可能性が出てきています。これは全世界的に見て他に類の無い特異なものです。
Y染色体を用いて推定される現生人類(新人)の拡散ルート
上記の発掘・発見地から見る拡散の軌跡とほぼ同じルートを示すがアジアに展開してからの分岐が詳細不明となっている。
しかし日本では4万年前~3万年よりずっと古い時代の遺跡も発掘されていて、これは現生人類が到達する前に、原人なども日本で暮らしていた証拠なのではないかと思われます。以前は旧石器時代のかなり早い時期から日本列島にも人(時代的に現生人類ではなく原人・旧人)が暮らしていたという見方が確定的でした。捏造事件以前は。。。。。
捏造事件とはどのようなものだったのか。
日本で見つかっている旧石器時代の遺跡を確認しておきましょう。
・旧石器時代の遺跡(残念版)
○捏造事件の遺跡たち・・・60万年前「上高森遺跡」、50万年前「高森遺跡」、35万年前「長尾根遺跡」、14万年前「馬場壇遺跡」
アフリカ起源とされるハンドアックス(握斧)、クリーバー(鉈なた状石器)、メノウの石核、尖頭器せんとうきなど大変価値のあるものが前期旧石器~中期旧石器時代の地層から発見され、日本全土に原人が存在していた証拠とみられていました。
→その後、これらの出土は藤村新一による捏造と判明しました。藤村は1970年代半ばから各地の遺跡で捏造による「旧石器発見」を続けていましたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日に毎日新聞にスクープされます。出土品は藤村が事前に発掘現場に自ら仕込んだものでした。藤村の捏造関与した遺跡は次々と明るみになり、範囲を広げ、大事件に発展します。これらの出土品はおそらく藤村所有の縄文時代のものと考えられていますが、実際どこからの物であったのか藤村自身も明らかにせず、闇の中となってしまいます。藤村の成果をもとに築かれた日本の前・中期旧石器研究は全て瓦解し、東北旧石器文化研究所は解散に至っています。捏造遺跡は学会から抹消されました。遺跡は観光の目玉とされている場合も多くありました。藤村は法律上犯罪を犯してはいないという見方もあるようですが、多くの人たちを裏切り失望させ傷つけるとんでもない事件であり、決して許されるものではありません。日本には前期~中期旧石器時代の確実な遺跡は存在しないという結果になってしまいました。
○明石原人・・・1931年明石市西八木の海岸において直良信夫が極めて古い人骨を発見する。直良氏がアマチュアであったため当時の学界はこれを無視、旧石器時代の人骨ではないかという直良の主張が認められることはありませんでした。その後、直良は同地点で発見した動物化石や石器を元に旧石器文化の存在を主張し続けましたが、東京の空襲で人骨は焼失してしまいました。しかしこの人骨の石膏模型が取られており、1947年になってこれが発見され、東大理学部人類学科教授の長谷部言人が石膏模型計測します。結果、壮年男性の腰骨だが現代人に比べて類人猿に近い特徴を有すると指摘、シナントロプスやピテカントロプスとほぼ同時期の原人のものであると主張して「Niponanthropus akashiensis (ニポナントロプス・アカシエンシス)」の通称を与えたのです。さらに長谷部は直良の「パラステドンの化石と同じ地層から発見した」という証言から、この人骨はシナントロプスよりも古い人類のものであり、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した証左だと結論づけました。しかし化石の現物は焼失しており、疑問を呈する研究者も多かったことから1947年10月20日から長谷部を調査団長とする西八木海岸の発掘が行われます。しかし、直良について長谷部が「オブサーバーとしてなら参加を許す」としたことから、怒った直良が参加を拒否、調査団は直良の化石発見地点から80mも間違った所を発掘してしまい、200万円(当時)ものお金を使ったにも関わらず人骨や石器はおろか動物化石すら発見できないという結果に終わりました。1982年になってコンピューターにより石膏模型を解析したところによると、これは原人ではなく縄文時代以降の新人であろうという結果になりました。1997年に近隣の藤江川添え遺跡で中石器時代のものとみられるメノウ製の斧が発見されますが、今も直良の明石原人がその段階の人骨であったのかは謎のままなのです・・・
200万て今の価値にすると。。。
○牛川人・・・1957年豊橋市牛川町の石灰岩採石場より出土した女性の左上腕骨が発見されたことが鈴木尚ひさしによって報告されます。現在日本で発見されている人骨では最古ともされます。この人骨の推定身長は135cmほどで小柄でした。しかしその後ナウマンゾウのスネ骨である可能性が高くなっています・・・
ナウマンゾウの間違いなんてことがあるのでしょうか?
○葛生原人・・・1950年、あの明石原人の直良信夫が佐野の葛生の石灰石地帯で化石人骨を発見し、ネアンデルタールに類似した旧石器時代の人骨として紹介されました。2001年に骨の再調査がなされ、結果、8点の骨のうちにはクマ、トラ、サルの骨の誤認があった上に人骨は14~15世紀の人骨であること、つまりかなり新しい時代のものということが判明したのです。原人をネタに町おこしをしていた葛生町でしたのでこれは何とも、、、2001年になって、、ねぇ、、という感じです。
町おこし。 佐野は大変良いところです。ラーメン・さのまる・いもフライ
○三ヶ日人・・・これも教科書で習った名前でしょう、三ヶ日人。1959年に発見された人骨は旧石器時代のものと考えられていましたが、後にお茶の水女子大学生活科学部の松浦秀治助教授らによる放射性炭素法による年代測定をしたところ、約7500~9500年前の縄文時代早期のものである結果が出てしまいました。
○聖岳人・・・1962年大分県南海部郡本匠村の聖岳洞窟から1万4千年前の後頭部の骨が発見されます。日本旧石器人の中で唯一この人骨だけが旧石器を伴って見つかりました。後頭部が突出する特徴は中国北部の上洞人に似ているとされ高校の教科書にも掲載されました。しかし2000年8月28日の新聞各紙やテレビ報道で調査、人骨が当初の発表された旧石器時代のものではないと報道されました。「発掘された旧石器は混入された可能性が高い」と指摘する報告書が国立歴史民俗博物館教授の春成秀爾により出され、聖嶽洞窟遺跡の捏造疑惑に発展していました。
○早水台遺跡・・・1950年代に大分県速見郡日出ひじ町で、芹沢長介氏らによって石英脈製の石器類などが発見され、研究の結果、これらの石器は、チョッパー(片刃の礫れき器)、チョッピングツール(両刃の礫れき器)、ハンドアックス(握斧あくふ)など古い様相を示す石器が主体をなしており、12~10万年前のものと推定されます。しかし最近の研究では大きくずれた4万年前以降に位置づけられる可能性が高いとされ、ハッキリしません。
はっきり言いますが、、残念なものばかりですね(笑)
藤村だけは本当に笑えないよ
これらは「残念版」ですからご安心を。次回はまともな遺跡を紹介します。
つづく